三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

映画 火垂るの墓にみる食と農の表現

前回は、火垂るの墓の全体的な感想をお伝えしました。

 

この映画の中で、困窮する清太に農家が食料を分けてくれないというシーンがあります。

子供の頃、鑑賞したときには、その寛容の無さに、農家に対する怒りすら感じていました。

戦時中の農家は、目の前の小さな子どもにすこしばかりのご飯を恵んでやれぬほど困窮していたのでしょうか?すこし掘り下げてみたいと思います。

戦時中の農家の暮らし


結論からいうと戦時中の農家は決して楽な暮らしとは言えませんでした。
いや、むしろ国民同様に苦しい食生活を送っていたようです。
口減し・借金減らしのために、農家の子を売るというようなことも普通にあったようです。
まず、戦前というのは「小作農」がありました。農家は地主から農地を借りて野菜を栽培していたのです。借地ですから納めるものを納めないといけません。

そしてなんといっても戦争中は国民全体が食料に困窮しました。
さらに、戦争が本格化すると「配給制度」がはじまります。つまり国が、国民の食料を統制・管理するようになったのです。配給制度のもとでは、農家は自分の生産したものであっても、国から安価で買い上げられていました。これを国への供出といいます。

供出量は、収量と家族数を基準に決められていたということでしたから、生産量が多ければ良いというわけではありません。
また国への供出以外の自由販売が禁じられていたようですから、清太が金や反物を持って行っても交換してくれないというのは、そういう意味もあるようです。それ以上に供出されているので、農家自身も食べるのに精一杯という事情が大きいところでしょうが。実際農家であっても、芋づるのおかゆを食べていたというエピソードもあります。

戦争中の食料困窮の状況における農産物の生産状況については、
映画内でのエピソードでもいくらか読み取れます。
それは堤防沿いに植えられたかぼちゃです。家庭菜園や堤防、学校の校庭など当時はあらゆる場所が食料生産の場所として畑となっていたようです。

不耕地解消については、休閑地の開墾はもちろんのこと、家庭菜園や道路端の畑にいたるまで、全国的に寸土も残さず野菜類の栽培が行われていた。たとえば鳴尾村では昭和15(1940)年8月から9月にかけて村役場の吏員が休閑地の耕作を実施し、300坪(990平方メートル)の畑を開墾した。昭和18(1943)年頃からは、鳴尾村の土地に適した藷類や大豆をあらゆる休閑地に植え付ける運動が強化された。この年、鳴尾国民学校高等科2年のある男子生徒が戦地に送った慰問の手紙によっても、当時の実情の一端をしのぶことができる。

『僕たちの学校も農園にさつまいもを植えたり、水田に稲を作らうと計画中です。高一の秋に植えた馬鈴薯もたくさん取れました。それで増産の一たんをなしたと思ってよろこんでゐます。又お百姓さんも一生懸命に増産し、はげんでおられます。馬鈴薯などはあまりたくさん取れたので米の代わりに馬鈴薯を食べてがんばってゐます。』

(鳴尾村銃後奉公会編「陣中御慰問」所収)

 

今の耕作放棄地の問題などが嘘のようですね。このように火垂るの墓は戦争中の暮らしを押しはかるのにも大変勉強になる良い映画なんですね。



 

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