三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

百玉そろばんは算数の架け橋

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昔の人はどうやって数を数えていたのでしょうか?

 


教科書だか参考書だかに書かれていたイラストを思い出してみます。

 


そのイラストでは、一本の木の下に私たちの祖先がたっていました。

祖先は遠く牛の群れを眺めています。

1頭、2頭、3頭・・・・。

草原に住む牛の数を数えているようです。

祖先は、先の尖った石を手に持ち、木の幹に傷をつけています。

まっすぐ横一文字にのびた傷です。一文字の傷は、並行して何本か並んでいます。

1本、2本、3本・・・。

牛の数を数えては、木の幹に刻んでいるのです。

合計で傷の数は8本になりました。

牛の数も8匹です。

 


いつの時代だかわかりませんが、誰かが、その傷に対して1からはじまる数を名付けました。

 


そして、2020年現在。

私の娘は小学1年生になりました。

娘は、今まさに算数で足し算を習っています。

今年は、コロナの影響もあって、授業時間も短くなっているので、家庭で宿題をみる機会も多いです。

 


数のことについて、何も知らない娘に足し算を教えるというのは予想以上に難しいものでした。

 


2+3=5のような簡単な計算も小学1年生にとって、いきなり解くのは難しいです。

 


そこで、私たちは、祖先が行ったことを繰り返します。

 


例えば、こんな問題。

「お皿にケーキが3個ありました。もう一つのお皿にはケーキは5個ありました。

ケーキは、あわせて何個になるでしょうか?」

 


祖先がみた牛の群れのように、小学生が具体的にイメージしやすいもので数を覚えるのです。

木につけた傷も進化していて、今ではブロックを使います。

 


現実では、ケーキを用意することができないので、ブロックを使うわけです。

 


こうして、5個のカタマリのブロック、3個のカタマリのブロック

あわせた数を数えると8個のブロックとなるわけです。

 


誰に言われなくても当たり前のことですよね。

でも、ここで言いたいのは、人は計算する際に、祖先が木につけた傷のように、自分が数えようとしているものの数を、何かに見立てて計算するということです。

それが今の学校教育ではブロックが使われています。

 


算数は、具体物(上でいうお皿のケーキ)を数字に置き換える勉強だと思います。

5個並んだケーキの数を数えるには「5」と書き、

3個並んだ場合は、「3」と書き、

それを足し合わせる場合には「5+3」と書くのです。

そしてその5+3の答えを考えるのがブロックというわけです。

 


さて、足し算をもっとうまく教えるにはどうしたら良いでしょうか?

実は数字とケーキの「架け橋」になるツールがあります。

 


それが百玉そろばんです。

小さい数字の足しひきを教えるのであれば、これは良い武器になります。

何が良いのでしょう?

 


焼き鳥の串のように玉が串ざしになっています。

ブロックのように散り散りにならないので足し算の時に玉を動かしやすいんですね。

例えば、さっきから何度も出ているケーキの例です。

まずは「5」。それは5個の玉を右から左に入れます。

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次に「3」。先に入れた5個の玉に重ねるように3個の玉を左に入れます。

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するとあわせて8個になるわけです。

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こうやって玉を左にやったり、右にやったりするのも感覚的で楽しいようです。

 


あとは、なんといっても、10のカタマリであります。

数字の数え方は世界共通。10進法が採用されています。

早い話が、10数えたら、次は11に繰り上がります。

 


そろばんは、10コずつのカタマリで動くので、それがイメージしやすいのです。

 


このイメージのしやすさも重要です。これが一番重要と言えるかもしれません。

 


実は3+2=5。という計算を子どもにさせます。

はじめの頃は、いちいち先ほど申し上げたようなやり方でそろばんに玉を打ち込んでいきます。

でも、練習を重ねるうちにだんだんとわざわざ打ち込まなくても、計算ができるようになっていきます。

そう実はこれは、そろばんを脳内でイメージして計算しているのです。

鍛錬を積むことで脳内で計算ができるようになる。

百玉そろばんは、数字と脳内イメージの架け橋でもあるというわけです。

 

 

 

 


そろばんをしている子は、計算が早いと言われます。

計算を脳内でイメージできるからです。

 


小さな数字の計算であれば、あまり差は付かないかもしれません。

でも、繰り上がりの計算になると、差ができてきます。

百玉そろばんを使うと、繰り上がりの計算も覚えが早い印象です。

我が娘もまだ、一年生の一学期ですが、わりとすぐの段階で試しに繰り上がりの足し算を教えてみたら、すぐに理解してくれました。

 


それも百玉そろばんでイメージしやすいからでしょう。

イメージのしやすさは、すなわち計算の速さにも関わってきます。

おそらく練習を積めば、繰り上がりの足し算も百玉そろばんなしでできるようになってくるでしょう。

 


文明は進化しています。

かつての我々の祖先が、いちいち木に傷をつけていたのを、今やそろばんという便利な武器ができています。10以上の繰り上がりや繰り下がりのある計算もそれでできるようになりました。

祖先が握っていた尖った石から、そろばんに持ち替えているわけです。

 


そろばんは、数字への架け橋です。

娘もこれで算数好きになってくれたらいいのに、と思っています。

くもんの玉そろばん120

 

朝顔とメダカ水

 

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「レイちゃんの朝顔だけが青々としててびっくりした」


7歳になるレイちゃんが、夏休みの間だけ家に持ち帰っていた朝顔の花。

夏休みの宿題として定番の、毎日観察して、花が咲いたら記録をつけるというものでした。

私自身は仕事が忙しく、朝顔の様子をみる余裕はありませんでした。

だから、妻にそう言われても、朝顔がどうだったかも、はっきりと思い出せませんでした。

毎日のように、その朝顔の横を通っていたのに、人というのは意外に周りがみえていないものです。

いや、正当化するわけではないけど、みえていたとしても、レイちゃんの朝顔がよく成長していたかどうかなんてわからなかったと思います。

ほかの朝顔と比べられませんから。

 


妻も、レイちゃんの朝顔が、よそよりもよく成長していると気づいたのは、二学期がはじまって朝顔の鉢を学校に持っていた時のことでした。

妻に、そのことを言われた時は正直半身半疑でした。

朝顔なんて、日当たりや水の加減で成長に差がでるのは当たり前だと思ってたからです。

 


でも、妻の様子がおかしい。

取り憑かれたかのように朝顔の成長について、スマホで調べていたのです。

「そんなにも気になる?」

「だって、それくらい成長が違うから。 ほかの子のはもう枯れかかっているのに。レイちゃんのだけ生き生きしてるから気になって。」

 


そこまで、言われると私も気になりはじめます。

 


「農薬やったせいかな」

「うーむ」

 


実は我が家では、畑を借りて家庭菜園もしています。

その畑で使う農薬があったので、妻が学校の朝顔を育てるのに使っていたというのです。

 


確かに、他の子と栽培環境が違う部分となると、農薬になってきそうです。

それでも、農薬というのは虫がつくのを防ぐものです。

作物の生育に、そこまで差が出るのでしょうか? 

私はまだ、半身半疑の状態でした。

 


そこで、私は、朝顔を直接見に行くことにしました。

ちょうどその日は二学期はじまって最初の土曜日でした。

レイちゃんと一緒に学校に向かいます。

 


土曜日の学校、運良く(?)扉が開いていたので入ります。

レイちゃんに手を引かれ奥へと進んでいくと、それらしい朝顔の並びが見えてきました。

 


「あれが私のだよ」

レイちゃんが指さしたのは、一番奥の鉢でした。

 

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目を疑いました。

妻が言ったとおりでした。

レイちゃんの朝顔だけが生き生きとしていたのです。

 


他の朝顔たちは、もう夏の終わりを告げるかのように葉っぱは黄色くて、寿命を感じさせる姿になっています。

一方でレイちゃんの朝顔だけが、まだ夏真っ盛りを生きているかのように、葉っぱが青々としていたのです。レイちゃんの朝顔はまだ夏休みを過ごしていたのです。

 


確かに妻が原因を調べたがるのも、うなずけます。

繰り返しますが、レイちゃんの朝顔「だけ」なんです。

それもはっきりとした違いです。

偶然では片付けることのできない決定的な差があったのです。

 


急いで家に帰って報告します。

妻ともう一度、その原因について、議論しました。

 


確かに、今となっては農薬というのは、可能性としてはあるかもしれません。

他の家の朝顔との違いといえば、それくらいでしたから。

でも、どうも納得がいきません。

農薬一つで、成長にここまで差がでるものか、と信じることが出来なかったのです。

 


ふたりで、うーん、うーん、唸っていると妻が一言つぶやきます。

 


「メダカ 水」かな。

 


「……それだ」

答えがわかったきがしました。

 


朝顔の水やりのとき、妻はメダカの水換えのために、水槽の水を鉢に与えていました。

 


我が家では何年か前から、メダカ を飼っています。

メダカ というのは、産んだ卵を、親メダカ のいる水槽から保護する必要があります。

放っておくと、親メダカが卵を食べてしまうからです。

妻は、それに耐えられなかったので、メダカ が卵を産むのにあわせて、新しい飼育スペースを用意していました。メダカ がどんどん卵をうむので、それにあわせて屋外にタライを用意し、そこでメダカ を飼育していたのです。

 


そうして、どんどんメダカ の数は増え、今ではタライ3つ分です。

 


タライで育てているので、水を浄化させる意味も含めて、定期的に水を入れ換えているわけです。

その際のメダカ のタライの水を朝顔にあげていたわけです。

 


実はこのメダカ水、ただの水とは違います。

メダカ を飼育する水槽では、当然メダカ のご飯の食べ残しや、メダカ のフンが含まれています。

その水は、ちょっと濁った水になります。

これが植物にとってはよい栄養分になるわけです。

 


自然の循環を思い出してください。

子ども科学教室で子ども達が質問します。

 


野生の動物のうんこが、溜まっていったらどうなるの?

溜まらない、が正解です。

土の中にいる、微生物が分解して植物の栄養分になります。

 


それと同じことが我が家の朝顔でも起きていました。

メダカのフンがたっぷり入った栄養水をいいタイミングで入っていたのです。

 


江戸時代の農業は循環型と言われています。

それは街中で出た、人間の糞尿を郊外の田畑に持ち出し、肥やしにしていたからです。

そんな環境保全型農業の見本となるような、農業がこの我が家でも行われていました。

 


これは結構自分の中では発見です。

おそらく朝顔はどんなご家庭でも小学校で育てると思います。

メダカの飼育と合わせて、朝顔を育てれば、一種の環境教育にもなるのではないでしょうか?

 


メダカのフンだろうと生き物の資源に無駄なものはありません。

そんなことを学校の中庭に一つ青々と輝くレイちゃんの朝顔を見ながら思うのでした。

【テネット予習シリーズ】インターステラーは時の魔術師ノーラン史上最大スケールの映画

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繰り返し時を描いてきたクリストファー・ノーラン

クリストファー・ノーランは時の魔術師。

最新作「テネット」に向けて、「インセプション」「インターステラー」と、ノーランの代表作を見返した私の感想です。

 


ノーラン監督は繰り返し、「時のズレ」を表現してきました。

初期作品「メメント」では、時間軸を逆行させ、

インセプション」では、現実で流れる時間と夢の中で流れる時間のズレを描いています。

 


時間のズレというのは、観る人の心をつかみます。

現実世界では、絶対に体感できないことだからです。映画の中でしか体験できないからこそ、私たちは映画館に足を運びます。

インターステラー」は、その極みのような映画になっていました。


時間のズレを圧倒的なスケールで描いた傑作と思っています。

 


時間のズレ自体は、他の作品でも描かれてきたことです。

たとえば、A地点とB地点で時間の流れ方が違うというような設定は、ドラゴンボールでいうところの「精神と時の部屋」です。

子どもの頃から慣れしたしんだ設定ですが、それはあくまでも漫画の世界の話でした。

 


時間のズレは現実にあり得る、と聞いたのは高校の頃でした。

昔、授業ではじめて「ウラシマ効果」というものを聞いたのです。

地球からロケットで宇宙に飛び出すと宇宙と地球では時間の流れ方が違うから、宇宙から戻ってきた時には、地球のみんなは年老いてしまっている。

そんな話だったと思います。

 

最大スケールの「ウラシマ効果


ひらたく言えば、インターステラーは圧倒的なスケールで描く「ウラシマ効果」です。

本作は、気候変動による食糧難で絶滅の危機に瀕している地球で、移住先となる惑星を探すために宇宙の旅に出るSF映画となっています。そこで、先程のウラシマ効果が登場します。

 


インターステラーが他作品と違うのは、徹底したリアリティを土台に作られていることです。アインシュタイン相対性理論よろしく、ゴリゴリの物理学に裏打ちされた設定が描かれています。実際本作は、キップ・ソーンという理論物理学者が映画の科学考証に入っています。

 


ワームホールブラックホール、4次元空間。

お馴染みのSF設定も、現実世界の延長であるリアリティのある表現として、ロマンに溢れている作品なんです。

 


本作のウラシマ効果の表現はリアルすぎてゾッとします。

思わず宇宙怖いと思ってしまうほどです。

 


たとえば、人類が住める可能性がある惑星の探索の話をします。

はじめて訪れた惑星は、重力の影響で1時間過ごすと、外では数年間の時間が経過するという恐ろしい惑星でした。

映画では、10分程度のシーンにも関わらず、地球では23年時間が経過してしまいます。

惑星に行って、宇宙船に戻ったら乗組員は年老いているわ、地球からのメッセージは23年分溜まっているわで、大失敗を犯してしまうのです。

 


ちょっとした選択が地球の未来を左右する。

そのことが実感として感じさせられる名シーンだと思います。

 

 

 

それだけでも、十分なスケールと言えますが、本作はそのさらに上をいきます。

時間のズレだけでなく、時空間の旅に発展するのです。

 


4次元空間です。

ドラえもんでも描かれているアレです。

本作では、一応それに対して理論的な解釈がされています。

ブラックホール特異点に行くことで4次元空間へと入るというものです。

時の魔術師は時空の魔術師に進化したのです。


そこから、次々と展開される伏線の回収は、鳥肌ものでした。

 

圧倒的な映像と物理と哲学


実は、クリストファー・ノーラン監督は、いつもこの辺りは紙一重です。

4次元空間なんてものを持ち出せば、一歩間違えれば嘘臭くて、しらけます。

なんといってもドラえもんと同じ概念を描いているのですから。

 


でも、圧倒的な映像による説得力とそれまでの物理で裏打ちされた説明で乗り切ります。

観ている間はほとんど違和感なくみれるのは、やはり演出の手腕がすごいのでしょう。

 


そしてこの物理ゴリゴリの本作。

ややもすると難解すぎてお客さんに伝わらない懸念もあったと思います。

そこも絶妙に親子関係や「愛」というものも織り交ぜてエンターテインメント性を高めているところが特徴です。

 


宇宙の旅の最中、描かれるのは、地上に残った子どもや親との切ない通信。

そして、旅先におけるある「葛藤」。

人類の存亡をかけた旅なのに、そこにはさまれる個人の感情に焦点があてられるから、物理は理解できていなくても、そのストーリーに固唾を飲む人は多いはずです。

 


最後には時空を超えた親子の「愛」すらも、物理法則の中で、客観的に観測可能なものとして描かれます。

 


いよいよスケールの大きさがまさに宇宙どころか哲学的にすらなります。

でも、本作が世界的にヒットしたのはまさにそこでしょう。

時空を超えて、つながる親子の物語としてみれば、涙なしには語れない映画になっています。

時空をつかさどる者は神に近い。ノーランはまさに映画の神になりました。

 


何を隠そう、私はノーラン監督の作品の中では一番好きな映画です。

科学オタクが作ったエンタメ作品。もともと理系な私にささらないわけがありません。

 

 

 

今、映画館でノーラン作品を観ると、冒頭にて最新作テネットの予告が流れます。

テネットも、「時」を扱った作品であることが分かっています。

ノーランの真骨頂の映画だと言えます。これは期待せずにはいられません。

 

インターステラー(字幕版)

 

【テネット予習シリーズ】映画にインセプションされる? ノーランが仕掛ける夢物語

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先日、コロナで随分足が遠のいていましたが、実に半年以上ぶりに映画館に足を運びました。

 

久しぶりの映画館で観る映画として選んだのは「インセプション」です。

クリストファー・ノーラン監督の2010年の作品で、最新作「テネット」の公開を控えてか、

映画館で上映されていたので観てきました。

 

せっかくの映画館での映画だったので、過去作を観るというのは少し残念な思いもありました。

新作があまり公開されていないこともあるので仕方ありません。

ですが、残念な思いを振り切ってでも、観たいと思うほど、私にとって好きな映画でした。

 

夢がテーマの複雑な作品

 

なぜかと言えば、ノーランの描いた夢の表現があまりにも新鮮で印象的だったからです。

インセプションは、夢がテーマの作品です。

映画の大半が夢のシーンになっています。

ターゲットの夢の中に入り込んで、アイデアを奪ったり、アイデアを植えつけたりする企業スパイが主人公です。

 

「アイデアを植え付ける」というのが、作品の中で「インセプション」と呼ばれています。

インセプションは、より深層心理に近いところで、やらなければ効果がありません。

そこで、夢の中でターゲットを眠らせて、さらに夢の中に入ります。そして入り込んだ世界で、さらに夢の中に入り込みます。夢の中でさらに夢に入り込むことで深層心理に近づこうとするのです。

 

ロシアのマトリョーシカみたいに、夢の中の夢の中の夢、といった具合に複数の夢の中が混在するストーリー展開になっていきます。

 

この映画、さらにここでもう一つ複雑な要素を入れてきます。

「夢の中の時間は現実よりも長く感じる」というものです。

 

つまり、現実の世界で10分寝ていたら、夢の中では1時間、夢からさらに夢に入ると1日。

といった具合に、ドラゴンボールの「精神と時の部屋」のように、現実世界の時間の流れ方と夢の中の時間の流れ方が違うものになっています。

 

とにかく本作は難しい設定が特徴ではあります。

映画内でも、ルール設定に割く時間は長いです。

チュートリアルみたいなシーンが続きます。

複雑な設定ゆえに、非常に飲み込みづらい部分があるのも確かです。

 

この飲み込みづらさが、夢の多重構造と、夢との現実の時間のズレが、本作の「メインディッシュ」になっていると思っています。

この設定だけで、ご飯何杯でもいけるんじゃないかと思うくらいです。

ここが楽しめないと、映画全体が楽しめないんじゃないかと思います。

それくらい、夢のシーンの映像表現は斬新です。

 

斬新な夢の中の表現

 

夢の表現と言っても、はっきりそれとみて夢とわかる夢ではなくて、わりと現実にあり得そうな夢になっています。

夢と現実がわからなくなる、という夢に入り込んだ時の副作用が描かれるからでしょう。

でも、潜在意識に気づかれた時のホラーのようなドキッとする表現だったり、突然建築物がバキバキと組み上がる表現だったり、これまでにない夢表現になっています。

 

そして、なんと言っても、夢の中の夢。

本作でいうところのホテルのシーンは印象的でした。

夢は上の階層の出来事に影響を受けます。

そのホテルのシーンでは、その影響で無重力になるのですが、これがなんとも奇妙で面白い。

ホテルで無重力の戦闘中にカットバックで現実の様子が描かれるのですが、そこでは眠っているだけなのがシュールなんです。あくまで「夢の中で戦っている」という設定です。

夢の中でも、無重力の中、眠っているキャラを束ねて起こそうとするシーンもシュールでしたね。

本作は、大真面目にシュールなことをしているのが興味深いです。

ノーラン監督作品はいつもそうです。

 

もう一つは、夢と現実時間のズレ。

本作では、映画が夢の三段構造になっています。三つの夢の場面が登場します。

夢のシーンが交互に映し出されていきます。

シーンごとに時間の流れ方が違うのが面白い。

一番上の夢では一瞬の出来事が、一番下の夢ではちょっと時間ができる。その時間の差を使ったギリギリの駆け引きみたいなものがスリルを生んでいて、ハンスジマーさんのジワリジワリくる音楽も相まって、テンションが上がっていきます。

 

映像センスと壮大なスケールの映画を観られて、やっぱり映画館に来て良かったなって思うわけです。

 

 

映画自体にインセプションされている?

 

ところがです。

冷静に考えるとおかしなところも多いのが本作です。

例えば、さっきの夢の中の夢の表現。なぜホテルは無重力なのに、一番下の階層は無重力でないのだろうとか。

いや、そのあたりは、まだマシだと思います。

夢をテーマにしている以上、どうしても細かい矛盾点は生じてしまうと思います。

 

でも、一番気になったのは、やっぱり主人公コブの言動でしょう。

コブは、チームメンバーにリスク犯させすぎでしょう。

特にモルの幻影のせいで、足をひっぱる恐れがあるのは、本人も当然わかるはずなのに、作戦を強行してしまうのはいかがかと思います。

 

モルとコブとのエピソードは確かにそれはそれで、夢の設定を生かした驚きの展開ではありました。

 

それを差し引いても。

というか、そんなことがあったのなら尚更、こんな仕事受けるべきではなかったと思います。

いや、仕事を引き受けるのは勝手ですが、それで他人を巻き込んではいけないでしょう。

 

度肝を抜く映像体験と複雑な夢設定で、すごい映画だと思う一方で、怒りの感情も湧いてくる不思議な映画になっています。

 

観ている間は、その映像世界にのめり込んで舌を巻くばかりでした。

思うに、観ている観客もインセプションされているのだと思います。

「これは何かすごい映画だぞ」と。

でも、映画見終わって現実世界に戻ってくると、「あれ? やっぱりあのシーンおかしくないか」と疑問が沸いてくるわけです。

 

個人的には、映像世界の凄みが伝わるというだけでも、ご飯が何杯でもいけるので、たとえインセプションされているとは言え、大満足です。

久しぶりの映画館で、一度観たことのある「インセプション」を選ぶ、という私の行動そのものが、実際多少のアラは目をつぶってでも、劇場に足を運んで観たいという気持ちの表れだと思っています。

 

最新作、テネットではどんな劇場でどんなインセプションがされるのか、今から楽しみです。

 

 

インセプション (字幕版)

インセプション (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

はじめての子育ては子ども目線でなく家族目線で

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父ではどうしようもなかった新生児育児

 

長女のレイちゃんが生後数ヶ月の頃の話です。

その日はちょうど、妻が不在で、私だけで新生児のレイちゃんと留守番していました。

 


そういう時に限って、赤ちゃんというのは泣きぐずるものです。

いや、きっと赤ちゃんながらにお母さんがいないことを感じ取っていたのでしょう。この世の終わりかのように、泣きつづけていました。

 


さて、どうするか。

考えられるのは、おむつか、お腹空いたか、眠たいか。

 


新生児というのは、生きていく上での最低限の欲求を満たすために泣いているはず。

ところが、おむつは変えても泣き止まない。

ミルクを作っても、全然飲んでくれない。

寝かしつけようにも、泣いてまわってまったく寝る気配がない。

 


いつもなら最後の手段、抱っこ紐でユーラユーラで、寝てくれるのですが、その日に限っては、ずっとぐずったままです。

ずっとずっーと立ったままゆらゆらさせますが、なかなか寝ついてくれません。

その時間は、実際は30分だか1時間だかそれくらいの時間でしたが、感覚としては何時間にも思えました。

 


困り果て、疲れ果て、もう泣き止ませることも諦めて、ずっと泣きっぱなしの状態で途方に暮れていると、妻が帰ってきました。

 


「レイちゃんごめんね、お待たせ。」

 


そう言って妻はレイちゃんを抱きかかえて、授乳に入ると、今までの奮闘がアホらしくなるくらいにレイちゃんは泣き止みました。

 


その時、新生児の頃の父親は、本当に役立たずなんだと気がつきました。

赤ちゃんは10ヶ月以上お母さんのお腹の中にいたんです。きっと、お母さんの匂いや体温を覚えているのでしょう。

どんなに父親が乗り越えようと思っても乗り越えられない壁があるのだと思います。

同じような経験をされた読者の方も多いのではないでしょうか?

 


レイちゃんは、私にとっても初めての子供。

世の中、父親が家事や育児を行うのはもはやスタンダードな世の中になってきました。

私も多少なりとも気合いは入っていました。

でも、母子間の結束の硬さに、その気合は空回りになった気がしていました。

 


結局育児に父親が出る幕がないのかもしれないとさえ、思っていました。

 

父は役立たずの誤ち

 

でも、その考えは間違っていました。

 


それに気づいたのは、本当に些細な出来事でした。

それは、まだレイちゃんが小さかった時期。

私は心の中で育児は母親がするものだ、という意識が根強かった時期でもあります。

 


車で出かけようとした時、妻に対して、つい口を突いて出てしまった言葉。

「出かけ先で、遊べるおもちゃ用意していないの?」

 


妻は激怒しました。

どうして、私一人が全て考えて、用意しなくてはならないの?

全部私に任せきりなの?

 


おっしゃる通りでした。

私は冒頭紹介した新生時期のエピソードから無意識のうちに子供のことは、母親がするものだ。

私が入る余地はない、と思い込んでいました。

 


でも、重要な勘違いをしていたと思います。

育児というのは、夫婦が乗り越えるべきタスクの一つにしかすぎません。

家族の生活を回していくことと、新生児育児に父親が関われないのは別の話なのです。

 

育児は家族全体のプロジェクト


仕事で言うなら、家事も育児も家族全体のプロジェクトなのです。

 


確かに、新生児の時、直接的に父親が関われるポイントというのは少ない。

今でもその考えは変わっていません。

 


子供が生まれたら、当然子供中心の生活になります。

でも、子ども対応は母親中心に進みます。

その時父親は子供目線よりも、むしろ母親目線で家族全体のプロジェクトを考える必要があると感じたのです。

 


産後一番苦しいのは、母親です。

子供をあやすことよりも、母親目線で、母親が今一番大変なことは何か?

出かける準備に必要なことは何か?

そう考えることで、家族全体がうまくまわります。

 


生まれて直後は、炊事・洗濯は父親がしなければならないのは当然のこと。

車のチャイルドシートに乗せ込んだり、大きな荷物を抱えたり、おむつやお尻ふきを準備したり、母親がする動きを先手をうって行うことを心がけてきました。

 


どの作業を父親がすると決めるわけではありません。

妻が炊事・洗濯をしてくれているのであれば、オムツは私が変えよう。

 


妻がオムツを変えてくれている時、自分が何もすることがないのであれば、オムツを捨てるポリ袋を用意しよう。

 


家族プロジェクトを進める時に、どの動きを取るのが最適かを考えるわけです。

私は正直仕事が忙しくて、子供の面倒も十分にみてやることが出来ませんでした。

子どものことは妻が一番よく理解してくれています。

だから、私は妻を通して子どものことを理解し、自分がなすべきことをやると考えました。

 


保育園の準備の仕方も、妻がする準備を普段から注目するようにします。

下手にわからない準備が父親がしても、失敗するからです。

 


妻ならどうする? を一番に考えて準備を進めるのです。 

 


子供が生まれたら子供中心の生活になると言います。

それを妻中心の生活にすると、家族全体のプロジェクトがうまくまわっていくのです。

 


だんだんと育児にも余裕が出てきました。

子育てのことで妻に怒られることも減りました。

父親になったら、子供に対する愛情以上に妻への愛情を向けるというスタンスを身につけることが出来たからだと思っています。

 

 

 

家事は分担するものでなく減らすものだ

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このブログでは、育児も仕事も趣味も妥協しない暮らしの提案を掲げています。

そのエッセンスについては、先のブログ記事にて少し紹介しました。

 

イクメンでなくデキる男を目指そうと思った理由 - 三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

 

今回は、実践編です。

我が家は夫婦共働きの3人育児。

近くに頼れる親もおらず、出産の時から夫婦二人で育児を乗り切ってきました。

末っ子シンジ君も、ようやく1歳半もすぎて、乳離れが始まりました。

体力的に一番しんどい時期は過ぎたかとも思っています。

 


どうやってそれを乗り越えてきたか?

その方法の一つを紹介したいと思います。

 

その家事は本当にやらなければいけないか?


冒頭で育児も仕事も趣味も妥協しないと言いました。

それは、育児も仕事も趣味も全部するという意味ではありません。

それぞれにやらなければならないことがたくさんあります。

 


でも、本当にそれはやらなければならないことなのか?

問い直すところから始まります。

 


育児や家事は夫婦二人三脚で乗り越えものと言われます。

やるべきタスクを夫婦二人で分担しましょう、ということです。

これは、男性の育児への参加を促す意味で語られることが多いです。

 


確かに、今や男性への育児参加は前提になってきました。

私の周りでも、期間の大小はあれど、育児休暇を取得する人が増えてきました。

 


でも、育児や家事にしなければならないことは無限にあります。

「何かやることある?」妻に聞くと、

「無限にあるよ。」と返ってきます。

 


ましてや仕事や趣味も妥協しないと言ったら、尚更です。

やるべきタスクを二人で分担するというのは大事です。

でも本当に大事なのは、「やるべきタスクを減らしましょう」、ということです。

 


子供が生まれると、人生のライフスタイルが一変します。

人生にはいろんなライフスタイルの変化がありますが、子育てはその中でも最も大きいと言っても過言ではありません。

生活の価値観の置きどころが変わります、本当に。

そこには想像もしない世界が待っています。

いきなり、子供最優先の世界が始まるからです。

大人が普通に暮らしていた世界の価値観を引きずると痛いめをみます。

 


たとえば、炊事、洗濯、掃除をきちんとして、丁寧に暮らす。

いわゆる丁寧なくらしは難しくなります。

子供にかかる時間がかなり増えるからです。

家事においてやるべきタスクは徹底的に減らして、ようやく真っ当な生活が出来るのです。

 

家事を減らすサービスを利用する

 

私は二人目、三人目の出産時、妻が入院中には、一人で子供の世話をしながら働いていました。

退院後の方が、サポートが必要ということで、育休を5日ほど取らせてもらいましたが、入院中は完全に働きながら子供を保育園に預けて、という生活スタイルでした。

 


その時の晩ご飯は、セブンミールのお弁当や冷凍食品を駆使していました。

最近はお弁当サービスも健康にも配慮されてますし、冷凍食品も美味しいものが多いです。

 


毎回レシピを考えて、料理して片付けての一連の流れをしようと思うと大変です。

だから、育児休暇中、最も手が掛かる時期は、恐れずに料理を外注することが重要です。

最近ではデリバリーのサービスも増えているのでやりやすい環境になっていると思います。

 

 

最新の機器を利用する

 

タスクを減らすには最新の機器を導入する視点も欠かせません。

以前、新・家電三種の神器について説明しました。

特に食洗機、洗濯乾燥機は、迷っている方は間違いなく買いでしょう。

食洗機などは、これまでずっと手洗いで過ごしてきた人にとって、抵抗がある方もいるかもしれません。でも心配する必要はありません。

食洗機を導入すると人生が変わります。

今まで、食器洗いにかけてきた時間は何だったのか、と振り返ることになるでしょう。

乾燥機も然りです。

 

 

見えないタスクを減らす


おもちゃの片付けも最近はあまりしません。

どうせすぐにグチャグチャにされるからです。

子供が大きくなったら、子供自身にさせたりもします。

 


どうせ、夫婦二人子供三人育てていたら、訪れるお客さんも減ります。

家で集まっての会食なんてだいぶ減りました。

それなら、あまり気張って毎日掃除する必要なんてありません。

お客さんが来るって決まってから、夫婦二人で集中して片付けたら、意外に早く片付くものです。

自分が生活する上で、必要最低限の生活衛生ラインをなるべく低くすることが重要です。

子供が大きくなってからゆっくりと丁寧な暮らしを心がければ良いのです。

 

 

 

奥さんの中には、良いお母さんになろうと完璧主義に陥る人も多いようです。

そうなると家事は完全にパンクします。

完璧にしようとして、夫婦喧嘩が増えることこそ、子供に一番悪いことであることを心がけましょう。

 


あとは細かいことですが、見えないタスクを減らす。

細かいことで考えたり、探しものを減らす視点というのも大事です。

 


保育園に預けると、毎朝の用意しなければならないものが増えます。

特に我が家が通わせていた保育園では、布おむつを用意することが必須でした。

使い捨てでないので、毎日おむつの洗濯が大変だったのを覚えています。

末っ子シンジ君はまだこれからですが。

水筒の用意や着替えの用意も必要です。

ここでは、用意する着替えや布おむつでは大量に洗い替え(予備)を用意するのがミソです。

保育園の準備をする時、あれはどこ言ったか?洗ってあるのかどうか?確認しながら用意するのが非常にストレスだからです。毎日洗濯しないといけないものなので、家の中で場所を移動して見失いやすいですし、明日の保育園の準備に間に合わせないといけないというプレッシャーもあり、精神衛生上でよくありません。

 


保育園から指示される量の3倍量の着替えや布おむつを、週末に用意しておきました。

できれば1週間分のセットを用意できていれば、毎日の用意コストを減らすことが出来るのでお得です。

 

 

 

仕事でも、iPadやアップルウォッチ、クラウド系のサービスの利用を積極的に導入しました。

これらの最新サービスは見えないタスクを減らす上で、欠かせない機器になってきます。

例えば写真を共有することを一つとっても今や、AIRdropって一瞬でできる時代です。

使わない手はありません。

このあたりは仕事だけでなく、家庭でも役に立ちます。

とにかく見えないタスクを減らすことで育児に集中する時間を増やすことこそが重要です。

 


見えないタスクを減らすことは、細かいストレスの軽減につながります。

チリも積もれば山となります。

子供の用意だけではありません。自分自身の用意でも、実践しています。

 


今やっているのは衣服(特に下着類)を派手なものにすることです。

パンツも靴下も、冬場であれば、ヒートテックも男性だからと言って全部黒色にしてしまうと洗濯した時の仕分けが大変になります。

黒色というのは家族で共通する色になってしまいます。

 


みためを気にしない下着類だけでも赤や緑の派手な色にしておくと、洗濯後の仕分けが非常に楽になります。靴下もビジネス用と休日用で、休日用の靴下は派手なものにするようにしています。朝の忙しい時間に靴下を探すのが楽になりますよ。

 


育児も仕事もタスクも減らそうと思えば、仕事や自分自身の準備のタスクも減らすことが肝心です。

さて、これまで日常のタスクの減らし方を見てきました。

まずは普段何げなくやっていることに目を向けて、減らすことができないか?

を検討することが大事です。

 


意外と惰性で続けている習慣というものは多いものです。

そうならないために、やるべきタスクというものを減らして、仕事も育児も趣味も家族みんなで充実させていくという視点が大事だと考えています。

日本沈没2020レビュー 予定不調和なストーリーが感性に訴える

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ピカソゲルニカ

昔、美術の教科書でピカソの「ゲルニカ」を観ました。

中学生時代だったと思います。

「何だ、子どもの落書きじゃん。」

まわりの友達とは、そんな感想を言い合っていたのを覚えています。

 

ピカソは、言わずと知れた天才画家です。

でも、そんなピカソが書いた絵は、なぜこんなにも評価されるのか分からない、

この絵だったら自分でも描ける、なんて素人からは評価されます。

 

でも、美術の絵の先生は言っていました。

「実はピカソはちゃんとした絵も描ける」

 

ピカソは、もともとリアルな絵を描くのも上手だと言うのです。

何でも、「叫び」とか「ゲルニカ」とか誰もが知っている名作は、ピカソが新しく生み出した絵画の表現技法によって作られているというのです。つまりは、上手くも描けるけど、わざとそういう絵の描き方をしているのだと。

 

その意味で言えば、湯浅政明監督のNetflixオリジナルアニメ「日本沈没2020」も、

もしかすると、ピカソ的なアート作品なのかも知れない。

全10話を完走したとき、そんな感想を抱きました。

 

脚本のアラは確かに目立つ 

正直言って、脚本はガバガバです。

別れても、キャラクターは都合よく合流するし、冗談かと思うくらいに人はあっさりと死にます。謎に登場する宗教団体やおじさんたちはその存在意義がよく分からなかったりします。

どうして、こういう展開になるのか、必然性に欠ける展開は多いです。

 

後半に行くにつれて、それに拍車がかかります。

それは、やがて物語への興味すら失ってしまいそうになりました。

 

ロジックでなく感性に訴える

でも、不思議なことに、最終話を見終わったとき、なぜか感情が揺さぶられてしまったのです。

ガバガバなストーリーテリングにもかかわらず、目頭が熱くなってしまったのです。

 

それはまるで、ピカソの絵を見た時の感覚だったのです。

決して上手いとは言えないピカソの絵。

でも、ゲルニカという作品は、心に訴えかけてきます。

 

そう、ロジックではなく感性に訴えかける作品。

それが湯浅政明監督なのかも知れません。

 

私は、この「日本沈没2020」から、新しいアニメ表現を魅せられている気がしました。

もちろん私は、アニメ製作においては素人です。

でも、人並みにアニメや映画は観てきました。だから、これだけは言えます。

日本沈没」は、今までに観たことのない手触りの作品です。

その秘密は予定調和のないストーリーテリングにあると思います。

 

予定不調和なストーリー

事実、この日本沈没2020には、予定調和なシーンが一切ありません。

中盤の「宗教団体(のような団体)」のエピソードにそれはよく現れています。

 

日本が沈没する危機にある中で、ユートピアのような場所が登場します。そこでは、死者の声が聞こえる子どもとその伝達者である母親が教祖で、信者が寝食に怯えることなく、暮らせているのです。

 

パターン化されたストーリーでは、築きあげたユートピアはまやかしで、その実はカルト教団。信者から、信頼と引き換えに大金を貢いでもらっていた、というオチになりそうなものです。

が、本作はそうにはなりません。

 

教祖もあくまで一人間としてしか描かれません。ある意味ニュートラルな存在です。

 

日本沈没のような災害映画でありがちな、死亡フラグもありません。

人は何の予告もなく、さも当たり前かのように死にます。

登場人物も、それを当たり前かのように受け入れます。

 

これも、ある種の、予定調和をあえて外しているように思うのです。

誰が、正義のyoutuberがカイトに乗って空から舞い降りることを予測できるでしょう。

 

この予定調和を外し続けた結果として、誰も見たことのない作品になりました。

結果として、それはストーリーのアラと紙一重になったのです。

 

脚本のアラを単に脚本の欠陥と指摘してしまっていいのだろうか、と言い切れないのです。

というのも、監督は、そんなストーリーのアラなんて百も承知で作品を作っていると思います。

 

どういう意図だったのでしょう?

きっと災害そのものが予定調和でないもの、だから、災害のアフターに置いても予定調和な展開が一切なかったといえます。

もう一つは、幸せな日常とのギャップです。

幸せな日常は、得手して予定調和な日常です。

毎日朝コーヒーを飲んで、家族とたわいもない会話をする。これこそが予定調和な日常です。

 

感情が揺さぶられたのは、予定調和なの日常と予測のつかない災害とのギャップです。

感動というのは、日常から離れたところにあります。

毎日飲むコーヒーは、美味しい。それが習慣になっているのなら、そのおいしさは安心と言っていいかも知れません。予定調和なおいしさです。

 

一方、日本沈没はどうでしょう、とてつもなく、旨味や苦味のエッセンスを抽出したエスプレッソを飲まされた気分です。いつもの安心のおいしさではない。ではないのだけど、しっかりと苦味を感じます。

リアリティさからいったら、後半に行くにつれて、気持ちが離れつつあったと言いました。

ラストのラスト、本作では、日常の尊さを訴えられます。

 

想像もできない非日常から、想像しうる限り最も幸せだった日常の輝きが眩しくて、でもその日常は戻らないというのに、新しい日常は、なぜか今まで以上に光輝いて見える。

最後にたたみ欠けるように、映し出される希望の物語にめちゃめちゃ前向きな気分にさせられたのです。

 

それまでひたすら、気持ちが塞ぐ展開が続いてきたというのに、その気持ちは一気に爆発しました。

 

この感情は見てもらわないと伝わらないものであります。

正直、後になって冷静になってみると、このアニメは万人に進められる映画ではありません。

そもそも、面白いかどうかって、自分の中で答えは出ていません。

 

でも、間違いなく心は揺さぶられ、何か自分の中で問いが生まれるし、今絶望に苦しんでいる人も、きっとこれを見終わる頃には眼を輝かせているに違いありません。

 

いつにも増して、何を言っているのか分からないブログになっているかも知れません。

でも、安心してください、何を言っているのか分からないけど、ロジックでなく感性で訴えるのが、この「日本沈没2020」なのです。

それはまるで、ピカソの絵画のように。

 

 

日本沈没(上) (角川文庫)

日本沈没(上) (角川文庫)

  • 作者:小松 左京
  • 発売日: 2020/04/24
  • メディア: 文庫