三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

京野菜存亡の危機、救ったのは若手料理人たちの熱い思いでした

前回は,京野菜の魅力をつくったさまざまな歴史や理由について,みてきました。
そこには京都の気候・風土・文化,都市と農家の交流,京料理の発展に裏打ちされた確かな品質がみてとれました。

しかしながら,そんな京野菜も実は一度存亡の危機を迎えていたことはご存知でしょうか?
今日における京野菜ブームの裏には,危機に瀕していた京野菜を復活させようと働いた京都の料理人や農家たちの努力があったのです。
今回は,高品質な京野菜はなぜ存亡の危機を向かえ,それをどう乗り越えて いったのか,紹介していきたいと思います。

 

大きく変化する流通構造

時代は第二次世界大戦終戦後にまで遡ります。


戦後,科学技術の発達により,世界的に野菜の品種改良が行われます。
病気に強い,たくさん収穫できる,ほかの品種があまり出荷されない時期に収 穫できる。農家にとっては魅力的な品質を持った野菜が登場します
 
さらに,高度経済成長期に入ると大量消費の時代に入ります。 人口増加の中で地元でのみ生産,消費されてきた野菜が,日本全国から求められるようになったのです。
従って野菜には、高い輸送性や統一の規格品が求められるように。そんな時代の変化の中で,京野菜は大量生産、大量消費の流れについていくことが出来なくなってしまいました。

たとえば山科なす。元々京都で作られているなすといえば山科なすだったといいます。その皮や肉質の柔らかさが特徴ですが,その特徴が輸送時の傷つきやす く,後から出てきた,多収穫で日持ちの良い改良品種・現在スーパーで見かけるあの千両なすに置き換わっていったのです。

 

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賀茂なす、山科なす、もぎなす京都だけでも三種類ある伝統野菜

そのうち山科なすともぎナスは栽培件数10件を下回ります。

 

危機を救ったのは若手の料理人たち

 

こういった危機的状況を救ったのは,伝統ある若手料理人のあつまり,京料理芽生会の活躍があります。


大量生産の時代にあって,同一規格で美味しくない野菜が流通する中で,本物の京野菜はどこにいった!?という問題提起から,京の伝統野菜を復活させようという熱い運動がはじまります。

芽生会は市内の伝統野菜を生産する若手篤農家に呼びかけ、自分たちが料理で使うから伝統野菜を作ってくれ!という契約栽培のような取組を行います。

さらに、料理教室やシンポジウムを通じて、広く市民に伝統野菜の大切さを呼びかけます。
それを後追いするかのように行政も動きます。昭和63年に京の伝統野菜を明確に定義付け、ブランド化の取り組みを進め、全国展開を始めたのです。
このあたりの運動が京の伝統野菜が今日も存続し、全国展開したきっかけとなったといえま す。
ちょうど昭和 60年代頃の話になります。


伝統文化に裏打ちされた確かな品質の野菜が存在したこと
時代の流れで取り残されつつあった野菜が,若手料理人や生産者たちの努力に よりその価値が再発見されるようになったこと。

これらのことが、いまの京野菜のブランドにつながっていると言っても過言ではありません。

一度途絶えしまうと復活させることの出来ない伝統野菜のタネ。大切にしていきたいですね。