三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

子どもの卒園は、親にとっての失恋でした

令和2年3月21日は、歩いていると汗ばむほどの春の陽気でした。

たまに吹く涼しい風が心地よく、新型コロナの自粛モードも吹き飛ばすかのようです。

 

その日は、私の長女レイ(6)が5年間通った保育園の卒園式でした。

卒園式の準備を終えた私は、レイと妹のアスカを連れて、保育園へと向かいました。

それは通い慣れた保育園への道。

いつも送り迎えで、自転車や車で駆け抜けた道を、今日はゆっくりと噛み締めながら歩いてむかいます。

 

保育園の門の前には、同じく本日卒園を迎える園児たちとその保護者たちが既に集まっています。

この日のためにフォーマルな服装にめかし込んだ同級生たちが、笑顔でレイちゃんを迎えます。

みんな、どこか浮ついているようです。

 

ちょうど5年前の同じ頃、私は入園式でレイちゃんを連れてきた時のことを、ふと思い出しました。

その頃の私は、保育園に対して、ここまで思い入れが深まるなんて、思っていませんでした。

当時の私にとって、保育園は、自分が仕事を続けていくための、託児サービスくらいの感覚でしかなかったのです。

 

私が通わせていた保育園は、紙おむつでなく、布おむつを用意させました。

服につける名前のルールも指定されてたし、エプロンなどの準備物は、親が手作りで用意をさせられました。(このあたりはほとんど妻が準備してくれましたが。)

また、送り迎えの際にセッティングする着替えの種類や枚数などの指定が細かくて、面倒も感じていました。

ちょっとセッティングが間違っていれば、お迎えの時に注意をされます。

 

細かいルールやダメ出しに、保育料を払っているのに、なんでこんな縛られないといけないんだ、と不満に思っていたこともあります。

 

いつの頃か、その手の不満は無くなっていきます。

保育園のルールにこちらが慣れていったのだと思います。

と、同時に、子どもの成長の場として保育園に通わせて良かったな、と思うことが増えてきたからです。

 

夏祭り、運動会、生活発表会、造形展。

保育園では、毎年恒例の行事があります。

こうした行事に参加する度に、子どもの成長に気付かされるのです。

 

跳び箱を飛べるようになった。

竹馬で、自在に歩きまわれるようになった。

劇で、長いセリフを言えるようになった。

大人も顔負けの、可愛い絵を描けるようになった。

 

私が、仕事に出ている間に、レイちゃんは、保育園でいろいろなことが出来るようになっていたのです。そのことを教えてくれたのが、保育園の行事だったのです。

 

出来ることだけが増えただけではありません。

子どもたちは、保育園を通してコミュニティを築いていました。

 

イチゴ狩り、デイキャンプ、劇遊び。

親は参加していませんが、そこでの楽しい遊びや体験が、クラスの絆を深めていたようです。

 

保育園の夏祭り、昔はお父さんとお母さんと手を繋いでひとつひとつブースを見て回っていました。卒業の年には、親から離れて同級生と一緒になって会場を駆け回るようになっていました。

 

 

もはや、単に託児サービスとしての保育園でなく、コミュニティとしての保育園でした。

子どもは、親だけが育てるのではありません。社会や地域が育てているということを、我が娘の成長を通じて実感したのです。

 

そして、卒園式。

 

お別れの歌が流れます。

周りを見渡せば、子どもたちよりも保護者達の方が、涙している気がしました。

私も、子ども達の成長のキセキを思い出すと、涙が出そうになりましたが、こらえます。

 

保育園から巣立ち、新しい人生の一歩を踏み出す我が子。

少しずつ、親の元を離れていく感覚。

子ども達の成長を嬉しく思いながら、そこはかとない寂しさがありました。

 

帰ってから、卒園文集で担当の保育士さんからのメッセージを読んだ時、寂しさの理由がわかりました。

 

「君たちは、保育園のこといつまで覚えているかな?」

 

そう、子どもって保育園の記憶なんて忘れてしまうんです。

自分も、保育園の時のことって、ほとんど覚えていません。

子どもは未来志向なんです。

レイちゃんも保育園のみんなに会えなくなるのは寂しいとはいいますが、それ以上に小学校に入るのを楽しみにしています。

小学校に入って、たくさん友達を作ることを楽しみにしているのです。

 

 

大人は、いつだって過去のことを振り返ります。

 

布おむつの洗濯が面倒だったこと。

保育園の人に細かいことを言われてイライラしたこと。

仕事に遅れそうだと、毎朝が時間との戦いだったこと。

母迎えの日に、サプライズで父が迎えに行って、大喜びしてくれたこと。

帰りの自転車で今日会ったことを話してくれたこと。

迎えに行ったら、レイちゃんが最後の一人で申し訳なく思ったこと。

保育園で覚えた、歌や踊りを、家で教えてくれたこと。

運動会で跳び箱飛んでカッコイイ姿を見せてくれたこと。

 

そのすべてを、きっと私は忘れない。

 

子どもの卒園は、大人にとっての失恋です。

それも片思いの失恋です。

 

失恋した人は、苦い思い出、でも大人になればそれも良い思い出、として一生心に残るでしょう。でも、片思いの相手は、それと知らずに、自分の人生を歩んでいきます。

 

子どもの卒園もそれと同じです。

親は、保育園に通わせている間、子どものことを思い続け、尽くします。

子どもに尽くした経験はずっと、ずっと記憶に残るでしょう。

その時は苦しかった経験が、将来は良い思い出となるのです。

 

でも、子どもはそれと知らず前に進んでいきます。

子どもだけの新しく、開かれた世界に飛び立つのです。

 

自分には大切な思い出だけど、相手は将来忘れていく。

そんな、片思いの失恋のような寂しさが、卒園にはあるのです。

 

子ども達が、この失恋の苦さに気づくのは、きっと子どもが親になった時なのでしょう。

 

 

こんな失恋の経験をさせる保育園が、単なる託児サービスな訳がありません。

子どもの成長を見守る地域や社会のコミュニティなのです。

今は、保育園、レイちゃんを一生懸命大切に育ててくれた担任の保育士さんには感謝しかありません。

 

さて、寂しさを感じてばかりではいられません。

何しろ私は三児の父です。

あと2回、失恋を経験しないといけないわけですから。