2002年に公開された映画「マイノリティー・リポート」という映画をご存知でしょうか?
スティーブン・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演のSFアクション大作です。
そこで描かれたのは、犯罪予知システムによって、犯罪が未然に防がれる世界でした。
完全自動運転の技術や、空中に浮かぶモニターなど最近の映画では、当たり前に登場する映画の近未来像が、当時は新鮮だったのを思い出します。
マイノリティ・リポートが描いた世界は2050年代。
ちょうど令和に変わったその年に同じく2050年代という近未来を描いた日本映画がありました。
「AI崩壊」です。
最新のテーマなのにワクワクしなかったSF
なるほど、今話題のAIがテーマとなれば、これから迎える新時代に相応しい、近未来SFになるのではないか、という期待を込めて鑑賞しました。
結論から言えば、少し期待外れと言わざるを得ません。
私が映画を観る楽しみの一つは、空想だからこそ描かれる、世界の未来です。
それが描かれるからSF映画というのは、ワクワクするのです。
マイノリティ・リポートは、こんな未来が来るかもしれないという、将来像を示してくれました。
それは怖くもある社会ではありましたが、登場する様々なガジェット類にワクワクしました。
申し訳ないですが、「AI崩壊」にそういった意味でのワクワクというのは感じられませんでした。残念なことに、令和の時代にありながら、平成時代に提示された「マイノリティ・リポート」で描かれた世界からあまり進歩していないふうに思えたからです。
確かに、その頃から技術は進歩して、実社会においても、AIという言葉が日々新聞やネット記事に踊っています。
もう少ししたら、AIというものが、ごくごく身近に感じられる社会が訪れそうな気がしています。
いや、ものによってはもう訪れているのかもしれません。
実社会におけるAIの存在感が高まってきている今、映画で描く未来は、さらに一歩先を行く内容であるべきだと思います。
でも、映画「AI崩壊」では、私たちが想像しうる範囲でのAIの活用法が描かれていて、想像しうる範囲での課題が描かれていました。
それが、斬新であるならば、良いでしょう。
しかし、残念ながら、内容については「マイノリティ・リポート」が提示して以降、繰り返し映画作品の中に描かれてきたモチーフでした。
それは、もはやステレオタイプと言って良いかもしれません。
令和時代に最新の科学テーマを扱った作品でありながら、お話自体は完全にステレオタイプだったのです。
ステレオタイプな世界観とキャラクター
一番違和感を感じたのはやはり、敵として描かれる警察組織の「百目」と呼ばれる、住民監視システムです。これについては、本当に何度も描かれてきたものだと思います。
警察という公的権力が、捜査という大義名分のために、市民のプライバシーを侵害する。
すると、もうすぐで現役を引退するベテラン刑事が、「捜査は足で稼ぐもんだ」と反抗する。
こんな構造は10年以上前に「踊る大捜査線」でも見られたシチュエーションです。
繰り返しになりますが、そんな古典的展開が令和の時代に繰り出されるもんだから、それはやっぱりしらけてしまいます。
アラが見えると全部が気になる
映画というのは、一部分で引っ掛かりができてしまうと、他が良くても全体の価値が損なってしまうものです。他にも、ダメな部分があるのではないか、という視点で観てしまうのです。
そうなると、アラが見えてきます。
そもそも元々の主人公の開発したAIシステムは医療用だったはず。
それがかなり広範囲に紹介されていて、冒頭で登場する自動運転技術にも応用されています。
正直、医療AIと自動運転は関係なくないか? と引っかかってしまったのです。
こんな一つのトラブルで、全国民の生命に影響が出てしまうAIなんて、一企業の一データセンターで把握すべき内容では無いような気がしますし、データセンター自体のセキュリティの描かれ方もどうなのよ、それ、とついつい思ってしまいます。
どうしてこんなにアラが目立ってしまうのか?
それはやはりAIによる情報管理社会というのが、今の現実社会の延長になりつつあるからです。
現実の延長にあるかもしれない社会を描くのに、あまり荒唐無稽や現実離れした描かれ方をすると返ってしらけてしまうことがあります。
全然もっと先の未来の話だったら、多少ぶっとんだ設定であっても、S F作品ということで多目に見られることもあるでしょう。
でも、人は自分が知っている知識については、厳しい目を向ける傾向があります。
AIという各方面で語られる分野だけに、その設定上のほころびがかえって目立ってしまうのです。
マイノリティ・リポートももしかしたら、2020年の今現在の眼で見たら、荒唐無稽でこんなの可笑しいと笑って見過ごしてしまう作品かもしれません。
シン・ゴジラ手法なら印象変わったかも
今回のAI崩壊も、わりと近い未来を描くということであれば、現実社会の延長として、徹底的にドキュメンタリックな手法でリアルな描き方をすれば、活路が見出せたのかもしれません。
シン・ゴジラは、ゴジラという古い虚構を描きながら、現実にゴジラが現れた時のシミュレーション映画としての描き方だったのが新(シン)鮮で、成功したのだと思っています。
映画というのは、自分たちには、想像や経験できない映画体験を提供してこその映画、だと思います。
でも、想像や経験できてしまいそうな映画に対しては、観る目が厳しくなってしまうのだなぁとSF作品のバランス感覚の難しさを感じました。