Whistle Life

食と農の話題を中心に、日々の雑感をつづります。

《映画にみる食と農》沈黙 サイレンス 原作のエッセンスを忠実に再現した心揺さぶる大傑作

今回はマーティン スコセッシ監督の最新作「沈黙 サイレンス」を観ました。

 

あのハリウッドの巨匠が日本の文学を映画化すると聞いて興味がわき、鑑賞しました。

恥ずかしながら、自分自身は「沈黙」という作品を知りませんでした。

 

大体いつものパターンは、原作未読の映画の場合、映画を観て、興味が湧いたら小説や漫画も読むというスタイルをとっていました。今回は、原作小説から作品に触れることにしました。

というのも今回の映画は、159分と上映時間が長いうえに、潜伏キリシタンとか信仰とか守備範囲外のストーリーを、予備知識無しで鑑賞するのに耐えられないと思ったからです。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

とはいえ、一方で懸念もありました。原作から読むと自分の中でイメージが固まって、映画観た時にギャップがあると、どうしても楽しめなくなってしまいそうだから。

というのがいつものスタンスです。

 

原作のエッセンスを忠実に再現した心揺さぶる大傑作でした。

 

ただ、、、、 

結論からいうと、全くの杞憂でした。

なぜなら、今作は遠藤周作の原作を実に忠実に再現しています。

いや、再現どころか深みを与えてすらいます。

元々力のある原作なのですからそれはすごいと思いました。

 

歴史の話で、しかも原作自体も古く、現代に生きる私たちにとっては、小説ではイメージ、解釈しきれない部分がたくさんありました。しかし、そこにちゃんと答えを与えてくれた気分です。たとえば、キリシタンへの拷問シーンはやはり小説でははっきりとしたイメージが出来ない部分が、迫力あるシーンとして描かれていました。

 

つまり、原作に忠実ながら、映画ならではの見せ場がちゃんとエンタメとして成立しているのです。

 

さらに、原作にあった問題提起の本質を抑えていて、ちゃんと観るものに訴えかけます。この物語の特有のすべての人物に善悪を色分けされておらず、その言動に「理」があることも実によく表現されていて、これは文字通り演じる役者陣の素晴らしさといえます。

キチジローも井上筑後守も通辞役、フェレイラも全て奥行きのある役所を、それぞれ小説が持っていた微妙なニュアンスを実に見事に表現されていました。

キチジローの、表層的にはすげえ下劣な役なんだけど、その弱さゆえの行動に説得力があるし。筑後守も一方的な悪に描かれていない。ちゃんと「理」を持った対応が表現されている。

そしてフェレイラ、そのそれまでの苦心を全て表情だけで演技仕切るのはすごいと思った。

いちいち指摘してたらキリがないほど見事でした。

 

全編にわたって「心」が揺さぶられる名作だと思いました。

 

少し寂しいのは食農表現に乏しかったこと

 

ただ、唯一残念だったのは、一応このブログは食と農に関するブログということで、この映画には数々の農民(百姓)が出てきますが、その生活が描かれていないことです。

原作ではわりと食事表現を中心に、その様子が記載されています。映画ではそれが、ほぼなくて、隠れて信仰しているという部分しか見せられなかったので、当時の農民の暮らしそのものはわかりかねる内容になっていました。

 

例えば原作では以下のような表現があります。

富裕な百姓でさえ、日本人の上層階級がたべる米を年に二度、口に入れるだけなのです。普通は芋と大根という野菜などが彼等の食物で飲料は水をあたためて飲みます。

 

家屋はほとんどが藁で屋根を覆い、不潔で悪臭がみちています。牛や馬をもつ家はトモギ村では二軒しかありません

 

地味のうすい土を丁寧に耕し、古い石垣で区わけした山畠は信徒たちの貧しさをはっきり感じさせます

 など主に農民の貧しい暮らしぶりが描かれます。

これはもしかすると物語の本質ではないかもしれません。

映画ではよりエッセンスに表現するため省略しているのかもしれません。

(映画でも干し魚のくだりやキュウリのシーンは残っていてそこから農民の暮らしを慮ることは可能かもしれません。)

 

ただ、幕府によるキリシタン弾圧下に加えて、厳しい年貢の取り立てが、逆に農民の中の結束感を増し、こうした厳しい現実への反動として、神への信仰という思いを、農民の中で強くさせたのかもしれない、と想像することも出来ると考えています。