突然ですが、レンチキュラーというものをご存知でしょうか?
レンチキュラーは、シート状で絵が描かれている印刷物です。
一番の特徴は、2枚の異なる絵が印刷されていて、見る角度によってその絵が変わるというものです。
よく、子供向けのおもちゃや本の中で登場するので、実物を見れば、「あぁ、これか」とわかってもらえると思います。
私が小さい頃からあるものなのでおそらく、20年、30年以上前からあります。
今となっては子供だましな技術かもしれません。
レンチキュラーそのものは、確かに子供だましかもしれません。
でも、一方でレンチキュラーは物事の真理を表しているのではないか、とも思います。
というのも、大人になって、いろんな経験を積んでくると、世の中はこのレンチキュラーのように、見る角度によって物事の見え方が変わるもので溢れていることに気づくからです。
人間だってそうです。
人は見かけによらない、とよく言います。
チャラチャラしてそうな人が意外と真面目だったり、真面目な人がとんでもない欲望を持っていたりします。
でも、そんな人間が持っている二面性を見抜くのは意外と難しいです。
その人の本性を見抜くためには、レンチキュラーを見る時のように、自分自身がその人を見る角度を変えなくてはいけないからです。
自分の立場をいつまでも変えなければ、本当のその人を見つけることはできないのです。
そのことを教えてくれたのは、2020年青春映画の傑作「ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー」でした。
本作のあらすじ
人は見かけによらない。なんて、ありがちなテーマかもしれませんが、それをものすごく巧みに描いた作品です。
本作は青春コメディのジャンルになります。
高校時代を勉強だけに費やしてきた、モリーとエイミー2人の女子学生が主人公です。
主人公二人は、卒業間近になって、遊んでいると思われたクラスメートの多くが、自分と同レベルの大学に合格していたことに気づいてショックを受けます。
失われた高校生活を取り戻すために、卒業前のクラスパーティーに参加するところから、物語は始まります。
モリーとエイミーと重なった自分の高校生活
そもそも、この設定の時点で私にとっては、「これは私の物語だ」と思っていました。
なぜなら自分自身がモリーやエイミーのような境遇に立たされたことがあるからです。
私は、高校生活注文、本作の主人公たちと同じでいわゆるガリ勉でした。
部活動も所属せずに、いわゆる帰宅部で高校生活のほとんどを勉強に費やしてきました。
その甲斐あってか、京都大学に入学することができました。
合格を聞いた時に犬とダンスをしたほど、嬉しかったことを覚えています。
しかしながら、大学に入ってから、周りのレベルの高さに私は驚愕しました。
さすがは京大、何気ない日常会話をしているだけで、賢いと匂わせる学生がたくさんいました。
でも、そんなことは入学前から想像できていたこでした。
想像できていなかったことは、京大生なのにイケメンだったり、スポーツで優秀だったり、いわゆるガリ勉、キテレツ百科の勉三さんのようなキャラクターとはかけ離れたイメージの学生がたくさんいたことでした。
話を聞けば、彼らは高校時代、しっかり遊んだり、勉強以外のことに取り組んできたりしていたことがわかりました。
勉強ばかりに費やしてきた私の高校生活はなんだったんだろう、と思いました。
「もっと遊ばなきゃ」
そんな思いを強くしたことを覚えています。
順序は少し違いますが、本作のモリーやエイミーと全く同じだったのです。
だから、その時点で、この映画は、これはかなり面白いのではないかと期待していました。
映画の面白さは、いかに没入できるか、にかかっています。
設定の時点で、共感していた私が没入しないわけがなかったのです。
脇役全てに光をあてるスマートな語りが面白い
実際、この映画はかなり面白かったです。
というのも、青春映画として、テンポが良くて、ドライブ感もあって、コメディ要素も面白くて、それだけで十分観る価値があります。
本当に、モリーとエイミーのやりとりが下ネタ込みで下世話でおかしいのです。
パンダのくだりは本当にくだらないですし、物語中盤にドラッグ効果で急にストップモーションアニメがはじまるなど、冷静に考えれば、かなりぶっ飛んだネタも仕込まれている映画でした。
でも、本作の真価はコメディ要素だけではありませんでした。
人間の描き方が、とてもスマートに描かれているのです。
まさに、映画自体がレンチキュラーのように、外観はコメディですが、見方を変えると、人生に対する普遍的なメッセージが詰まっていたのです。
映画というのは、キャラクター自体が物語を動かす機能になることが多いです。
味方役がいて、敵役がいるといったら想像しやすいでしょうか?
それで行くと、学校というのは、スクールカーストと呼ばれる言葉があるように、優等生、不良、リーダータイプ、オタク、いじめっこ、いじめられっ子とか、そういった人間関係がステレオタイプ化しやすいです。
しかしながら、ブックスマートでは、必ず、それぞれのキャラクターの違う一面を見せるつくりになっていました。
序盤の高校の中のシーンで、それぞれの生徒の、いわゆるステレオタイプな立ち位置を紹介した後に、パーティーシーンでそれぞれの違う一面を見せていくつくりになっているのです。
学校の先生が、裏の姿を見せたり。
意地悪そうだったキャラクターが、優しい一面を持っていたり。
お金持ちのボンボンだったキャラクターが、孤独を感じていたり。
脇役全てに、学校での役割分担のような物語の機能を押し付けないつくりになっているのが素晴らしいです。
他者理解への大切さを描くメッセージ性
人は見かけによらない。
だけであれば、もしかしたらありふれたテーマなのかもしれません。
しかしながら本作では、見方を変えるには自分が変わらなければいけない、そんなこともメッセージとして伝えている気がします。
そう、高校生の脇役キャラたちの別の一面を見ることができたのは、モリーやエイミーが自分の見る視点を変えることができたからです。
これまで勉強一筋だった彼女らは、普段の学校生活の中でしか、同級生のことを知りませんでした。しかし、最後卒業前夜のパーティに参加することで、また違った角度からクラスメートのことを理解できたのです。
クラスメートだけではありません、もともと親友同士であるモリーとエイミーもそうです。
モリーとエイミーがお互いに理解を深めることができたのも、違った角度からお互いを見ることができたのです。
そう、彼女らが立場を変えることができた、そして立場を変えるために行動を起こしたからこそ、そのことに発見することができたのです。
「ブックスマート」は本で学んで賢くなった人=経験を伴っていない人との揶揄で使われる表現だそうです。
彼女らは確かに勉強はできるが、ブックスマートでした。
結果として、一面的な捉え方しか、できていなかったのが、パーティーに参加し、他者の新たな価値観にぶつかって、初めてその人のことがわかる。
頭の中では決して理解することのできない体験だったと思います。
パーティでの経験を経て、ラスト、新しい視野を手に入れた彼女たちの清々しさは必見です。
本作は、ライトな印象の青春コメディでありながら、誰の人生においても響くような普遍的なメッセージが込められていると感じました。
人間は思った以上に自分の視点を変えることは難しい。
それも大人になればなるほどです。
だからこそ、ブックスマートは、大人になった今こそ見るべき青春映画の傑作です。