三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

エイス・グレード 感想レビュー 思い出したくない中学時代の青春映画 親のまなざしに涙腺決壊

 

 

 

いつもなら、映画の記事は、観てから感想をまとめるのに2、3日かけます。

 

でも、本日紹介する映画「エイス グレード 世界で一番クールな私へ」はすぐに記事化したい!

観た直後に溢れた熱い気持ちをなるべく早くそのまま伝えたい! と思いました。

鉄は熱いうちに、と言いますが、一刻も早く皆さんにお伝えしてまわないとこの感情が風化してしまうと思ったのです。

 

今、そんな気持ちで、ブログを書いています。

 

 

 

いずれ中学生になる父親=私の物語

結論から言うと、年甲斐もなく、めっちゃ泣いてしまいました。

この映画の登場人物に主人公の父親が出てきますが、その父親の娘に対する愛情に、子を持つ父である自分を完全に重ねてしまったのです。

 

この映画の主人公は、中学卒業まであと1週間を迎えた少女・ケイラです。

タイトルのエイスグレードは、日本で言うところの中学3年生。アメリカでは、中学卒業が、日本よりも1年早いから、小学校から数えて8年目(つまりエイスグレード)です。

 

要するに、一番多感な思春期の少女の姿を描く、青春映画です。

でも、私にとってこれは完全に、父親の物語でした。

主人公が父親ではありません。

ただ、気付いたら、感情移入の対象は、父親になっていたんです。

それは私自身が三児の父だからでしょう。

私だって最初は、中学生が主人公の青春映画と思って観ていました。

あぁ、私にもこんな青春時代があったよね、なんて思っていました。

もちろん、ケイラが経験するような、ほろ苦い思い出もありました。

ノスタルジーに浸るともちょっと違う。生々しくて、痛々しい中学生の思い出です。

 

ただ、物語終盤、ケイラが、自分の将来の希望を失った後、父親と対話するシーンが描かれます。

その場面で気づいたのです。

あ、これは「今」の私の物語だった、と。

 

そう、それまでは、自分自身の中学生時代を振り返りながら、「昔の自分」=「中学生時代のケイラ」を重ね合わせていました。

でも最後には、人生に迷う娘を想う父親の姿に、「今の自分」=「いずれ中学生になる子どもを持つ親」と重ねていたのです。

 

今の自分の物語だと気づいた瞬間に、涙腺が崩壊してしまいました。

子を持つ親として、子供がどんな状態になっても、あるがままを受け止め、抱きしめられる親になりたい。

そう強く心に誓ったのです。

 

繰り返しですが、この父親自身は、主人公ではありません。

この映画は現実に誠実です。

ケイラの父親マークは、理想化された父親として描かれるわけでも、ありません。

何か娘の問題をバッチリ解決するわけでも、ありません。

もっと言えば、マークは良い父親と言えるかどうかも分かりません。

中盤までは、娘とのコミュニケーションが全くできていなかったからです。

彼は、自分の娘の身にどんなことがあったのかも、正確には把握できていないでしょう。

 

それでも、娘を信じ、愛し続け、寄り添うことが、父親の唯一できること。

そして、娘が絶望の淵に立たされた時、それが一番大事なことであること。

そんなことを本作は示してくれているのだと感じています。

 

もちろん父を語るのに子どもで主人公であるケイラのことを書かないわけにはいけません。

 

誰もが経験した痛ましい中学生時代

 

映画は、ケイラのyoutubeへの投稿動画から始まります。

ケイラの投稿動画のテーマは、ずばり自己啓発。人生をよりよく生きるためのヒントを語ります。その時点でちょっと痛い感じがしますよね。

 

冒頭の投稿動画で話されるテーマは、「自分らしくあること」。

人気者になるためや、カッコ良い彼氏をつくるために、自分自身を曲げていたら、意味がない。

と言う趣旨のことをケイラは語ります。

 

しかし、このセリフはそのまま、ブーメランのように、ケイラ自身に返ってきます。

youtubeで自分のことを着飾っている時点で、「自分らしくあること」とは、矛盾になっているとも言えます。

 

実際、「自分らしくある」ことを語っているケイラ自身が全然自分らしくないことが映画で語られていきます。

 

例えば、ケネディというクラスの人気者の誕生日パーティに参加するシーン。

パーティに全然溶け込めないケイラ。参加者みんなで、ケネディの誕生日プレゼントを披露するシーンでは、周りに合わせて、愛想笑いや、小さな声で輪に入りきれない感じを出しているのが、たまらなく、「自分らしく振る舞えていない」代表のような場面になっています。

 

出来ないことをできると言ったり、無理に周りに合わせようとする姿に、どれも観ていて痛ましさすら感じました。

 

その極限にあたるのが、ケイラと高校生との遊びです。

本作で、最も痛ましく、生々しく、印象に残るシーンでしょう。

 

中学校でうまく自分を出せなかったケイラは、高校に希望を抱きます。

高校の体験入学で出会ったお姉さんが、超絶優しくて、面倒見もよかったのです。

ついには、お姉さんに、遊びにまで誘われます。

このお姉さんについて行ったら、バラ色の高校生活を送れるのではないか。

そんな期待に胸を膨らませたのです。

ですが、お姉さんに誘われて、ショッピングモールについて行ったら、他の男子高校生もいました。ちょっと大人の世界に足を踏み入れる。皆さんにもそんな経験があるのではないでしょうか?

私も、高校の先輩と会う時は、緊張しつつも楽しかったのを懐かしく思い出していましたが、地獄はここからでした。

 

ケイラが、その男子高校生に家まで送って行ってもらってる時。

この時点で観客には嫌な予感しかしません。そしてその嫌な予感はあたります。

「真実か挑戦か」ゲームが始まったのです。

ケイラの心理を追い詰める陰湿なゲームでした。

 

何が起こるかは是非とも自分でチェックしていただきたいのですが、高校生の手口が滑らかで、

本当にコイツ、他の少女もこの方法で、追い詰めてきたんだなというのが分かります。

 

一方、ケイラは高校に希望を抱いているから、嫌われるのを恐れ、見栄をはります。

でも、男子高校生の欲望を前に、ケイラは完全に固まってしまいます。

最後は、男子高校生の欲望に応えられなかったことに対して、すみません、すみません、と謝り続けるのです。自分は全く悪くないのに。

 

その姿のなんと痛ましいことでしょう。

絶望というのは、期待が膨らんでいる時ほど、大きくなってしまうのです。

 

でも、痛ましく感じたのは、私自身が少なからず、中学時代に似たような経験をしたことがあるような気がしているからです。

 

私は、陰キャラで、マンガやゲームが好きなインドア少年だったんだけど、周りから取り残されるのが嫌で、アウトドアやスポーツの誘いは進んで参加したのです。

本当はちょっと無理をしていました。

友達からはそんなに陰キャラだと思われてなかったと思うし、実際陰キャラだと思われないように、リア充な生活を目指していたんです。

ケイラほど、キツイ経験はしていません。

本当はしたくない、と思っていることも、周囲に合わせてしてしまったこともありました。

 

そんな自分を、ケイラに重ね合わせていました。

当時SNSはないけれど、私は自分を着飾っていたのです。

 

多かれ少なかれ、誰しもが、周りに合わせて自分を着飾り、背伸びをしすぎて、理想と現実のギャップに絶望する。

自分らしく振る舞うことの難しさを、この世に生きる全ての中学生が経験するのではないでしょうか?

 

父親ができることは娘を愛すること、それだけ

 

ケイラが、辛い現実に直面し、将来に絶望した時、父と子の対話が始まります。

 

ケイラの父マークは、ケイラ目線で言えば、過保護で鬱陶しいキャラクターとして描かれてきました。

社交的になれ、だとか、夜寝る前に様子を見にきたり、ケイラの夜遊びを監視しにきたり、とかです。

ある意味、典型的な昔ながらのお父さんと言っても良いかもしれません。

先にあげた典型的なお父さんの行動の数々は、これまで数多くのドラマで描かれてきた、お父さんキャラそのままです。

 

でも、最後、過保護で鬱陶しいお父さんは逆転満塁ホームランを打ちます。

そのことで、父はケイラにとっても観客にとっても、一気にその地位を上げたのです。

 

とはいえ、父親はケイラの抱える問題を解決してあげたわけでも、ケイラに将来の希望を与えたわけでもありません。

父親がここでした事は、ケイラに愛しているという事を伝えただけです。

それで良いのです。

 

ケイラが将来に対して希望を見出せなくなったとき、父親の愛は、最後の防波堤となったのです。

そして、父はケイラをギュッと抱きしめます。

抱きしめることしかできませんが、抱きしめることが一番の回答だったのです。

生まれてからこれまでの、あるがままのケイラを抱きしめたのです。

 

このとき、この映画に向ける目線も一気に反転します。

 

中学生時代のほろ苦い思い出に浸っていました私も、将来中学生の父親になるんだと、気づいたのです。

それで感情移入の対象は父親に変わりました。

考えてみれば、娘も今や小学生。自分が中学生の頃を想像するよりも、子供が中学生になることを想像する方が、年齢的に近い。

 

「さぁ、今度は子どもたちがなんらかの理由で絶望したとき、今度はあなたが抱きしめてあげる番ですよ。」

 

そう映画に問いかけられた気持ちになりました。

この映画を見終わったとき、無性に娘たちを抱きしめたくなりました。

 

映画を観ていたのは早朝でした。

まだ眠っている娘たちの、傍らに添い寝し、そっと抱きしめたのです。

 

彼女が中学生になった時、おそらくこの映画を見返し、ちゃんと、娘を愛せているか確かめよう。そんな思いを抱きながら娘の寝顔を眺めたのです。

 

人生の教訓として、子を持つ親として、これからもずっと心に残り続ける、そんな映画と出会えて本当に良かったです。