育児も仕事も趣味も妥協しない。
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人生で何かことを成し遂げたいと思うのであれば、強い目的意識と、行動力、
自分が正しいと思うことを貫く力が必要です。
でも、自分が正しいと思うことを貫けば、貫くほど、生きづらくなる。
そんな社会の理不尽な一面を見せられるのが、映画「リチャード・ジュエル」です。
ド直球のエンターテイメント
リチャード・ジュエルはクリント・イーストウッド監督の最新作。
アトランタ五輪の際に実際に起こった冤罪事件をベースに描かれた作品です。
アトランタ五輪の関連音楽イベントの爆破事件を救った警備官であるリチャード・ジュエル。事件直後は英雄と称えられるも、一転、今度は第一通報者である彼は容疑者としてFBIの取り調べを受け、メディアにも取り上げられ、立場がどんどん悪くなる、というストーリーです。
本作は、ド直球なエンターテイメント作品です。最近、演出や脚本がトリッキーな作品も多いなかで、ありがちな題材でありながら、良質な映画としてちゃんと楽しませてくれるのはさすが、イーストウッドというべきでしょうか?
この手の冤罪事件を扱った作品では、本当はもしかしたらリチャードが犯人かもしれない。
そんな含みを持たせて着地する映画も多いです。
あやういリチャードの使命感
リチャードは、法執行官への憧れと、秩序に対するある種の使命感に燃えています。
その危うさが映画冒頭から、印象的に描かれます。
たとえば、雇ってもらった大学の警備で、学生とトラブルを起こして学長とケンカになります。
リチャードとしては、大学内の秩序を守るため、当然のことと思っている。
でも、それはあくまで周りからすれば、行き過ぎに見えます。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
リチャードの行きすぎた行動は、観客に「この人は本当は悪い人かも」という反応をもたらします。
その中で、リチャード自身が容疑者となってしまう爆破事件が起こってしまうのです。
ここで観客としては、本当はリチャードがやったのかもしれない。
多少なりともそんな印象を受けてしまいます。
でも、後半に行くにつれて、観客は段々と気づいてきます。
リチャード・ジュエルの信念は、本物でまっすぐだ。
まっすぐであることの両面性
本作では、リチャード・ジュエルの、よくも悪くもな「まっすぐ」さが描かれます。
まっすぐさは、時に危うくもあります。
一方で、まっすぐさは、勝ち抜く強さを持っています。
そんな、まっすぐさの両面を描いているのが本作だと感じたのです。
リチャードは、自分が容疑者となって、取調べを受ける立場になったにもかかわらず、法執行官に対する敬意を忘れません。
法執行官は、「いつか自分もなりたい」と夢見ていた職業だからです。
自分が不利になる発言だと分かっていも、自分が正しいと感じたことについてはその通り受け答えします。
やはり、まっすぐなのです。
そんなまっすぐさが社会では、受け入れられません。
心のない人たちの手によって、まっすぐな思いは利用され、もてあそばれるのです。
こうして、リチャードは数々の理不尽な思いをします。
一方で、理不尽な目にあう、彼の「まっすぐさ」の積み重ねが本当は、彼が犯人かもしれない、という疑念を払拭していきます。
映画も後半にむかうと、観客はすっかりリチャードの仲間です。
リチャードが、弁護士とともに反抗に向かうシーンでは、
今までFBIにナメられっぱなしで、リチャードの弁護人のサム・ロックウェルからも怒られっぱなしだった彼が、渾身の一言で場の空気を変えるシーンは胸が震える思いでした。
最後、リチャードは勝利します。
容疑者になった時は、あれだけメディアが大騒ぎしたにもかかわらず、リチャードの勝利は、世間的にはほんの些細な出来事でした。
せいぜい、喜びを噛み締めるかのようにハンバーガーを口に入れるくらいのことです。
でも、観客だけは、あの時、あの瞬間、リチャードとともに歓喜の声を挙げていたと思います。
人間誰しもが、人間の社会的背景や主義主張で、色眼鏡で見てしまいます。
私も同じように、リチャードのことをはじめは疑っていたのです。
行きすぎたまっすぐさは、社会では異端です。
誰もが容易に異端児として扱われてしまう。
そんな恐ろしさをこの映画から感じました。
一方で、社会の誤った目線から勝利を得るのも、「まっすぐさ」であることを物語っている気もします。
変な小細工ではなく、自分が信じる道を進むことが、生きていく力になると感じたのです。
「まっすぐ」であることの両面を見せてくれたのです。
ストーリー展開は単純でも、主演者が地味であっても、エンターテイメントとして成立し、しっかりと骨太のメッセージを届けてくれました。
90歳の監督のさすがの貫禄を見せつけてくれた一作だと思います。