三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

Apple TV映画映画レビュー「パーマー」 新しい常識の中で描かれる親子の絆

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昨年、iPhone12を買って以来、ずっと気になっていたApple TV+。

iPhone購入者は特典として1年間無料で視聴ができるのですが、3ヶ月間視聴せずに過ごしていました。他に観たい映画があったり、Netflixとも契約していたりしたので、なかなか観る時間がとれなかったのです。

 

しかしながら、ある日Appleから、新しく映画が配信開始されたことを知らせるメールをきっかけについに観ることになったのです。

ちょうどその時は、2回目の緊急事態宣言が発令されていて、めぼしい映画も公開されておらず、新作に飢えていました。

でも、それ以上に作品としての興味をそそられる作品でもありました。

それがAppleオリジナル映画「パーマー」でした。

 

 

 

パーマーは歌手で俳優でもあるジャスティン・ティンバーレイク主演の人間ドラマです。

 

監督:フィッシャー・スティーブンス

出演:ジャスティン・ティンバーレイク/ジュノー・テンプル/アリーシャ・ウェインライト

時間:1時間50分

R18+

 

私と相性の良い作品

 

ジャスティン・ティンバーレイク主演が売りなようですが、私自身はあまり知らないこともあって興味はなく、私が気になったのは、これが、父親と子どもの物語であったことです。

ジャスティンさんは、見かけからして私と同い年くらい、子役の少年も小学生低学年? くらいの年齢だからちょうど私の娘と同じくらい。

つまり、私と似た年齢設定の映画であったことから、これは私と相性が良いかもしれない。

そう思ったのでした。

 

予想は当たりました。私にドストライクな映画になっていました。

映画そのものもクオリティも高くて、月600円。私自身は先程の特典で無料で視聴できるので、無料でこんなクオリティを観れるなんて、さすがAppleだと言えます。

 

パーマーは、血のつながらない大人と子どもの絆、つまり疑似家族の話であったり、社会から除け者にされたものが居場所を見つけていく話であったり、題材時代はよくみるモチーフであるとも言えます。

 

しかし、本作では、今までに観たことのないこととして、社会の価値観における「新しい常識」が描かれている点が、興味深く感じました。

 

どういうことでしょうか?

 

 

クィアな登場人物たちだがそこはテーマではない

 

物語は、ドラッグ中毒の母親に育児放棄された少年サムについて、主人公パーマーの家で面倒を見ることになったところからはじまります。

 

本作の主人公はいずれも、変わった(クィアな)人物として描かれます。

 

主人公のパーマーは、昔に起こしたある犯罪で12年の刑期を終えて社会に戻ります。

就職も、その犯罪歴から苦労しますが、ようやく小学校の用務員の仕事につくことができました。つまり、社会にはじかれた存在として描かれます。

 

一方で、主人公と疑似家族を作る少年サムは、男の子でありながら、女子が好むアニメが好きで、女の子とティーパーティーごっこをして遊ぶようなキャラになっています。

 

サムのキャラ自体が今までにあまりない設定だと言えます。

 

これまでの映画であれば、LGBTQそのものが作品のテーマになってきました。

性的思考と社会との適応が描かれてきたのです。

 

ところが本作では、そこはあまり重要視されていないように思えます。

あくまで、社会に弾かれた親子の絆を描いています。

 

だから、性的マイノリティ自身は作品のテーマにはなっていないように感じました。

どんな社会境遇であれ、子を想う親の力は変わらない。

そんな普遍的なテーマを描いた作品だと思います。

 

 

多様なバックボーンを持つこと前提で物語を語る

 

現代において、そのマイノリティをことさらに取り立てて扱うこと自体が、時代にあっていない。多様な人間がいることを認め合う世界で生きている。

つまり、新しい常識の中で登場人物たちは生きている、そんな印象を受けたのです。

 

確かに少年サムは、劇中、男の子でありながら女の子趣味を持つことから、同級生やその親からいじめられたり、からかわれたりしています。

この社会において、マイノリティ自体の差別そのものが、なくなったわけではありません。

それでも、描かれ方としてはどうでしょう、昔の映画の方がもっと卑劣ないじめにあっていたかもしれません。

実際に、サムはからかわれたりしている一方で、別の女の子のエミリーとは仲良く暮らしていますし、そのエミリーの親もそれを良しとしています。

 

そして何より、学校の先生の多様性に関する寛容さに涙されます。

ハロウィーンのシーンでのサムへの配慮がぎゅっと詰まった対応は、思わずメモに取っておいてしまうほどでした。

 

そう、本作ではマイノリティに対する暖かい眼差しもしっかりと描かれているのです。

パーマーもはじめこそ、女の子のドレスの衣装を買いたいというサムに対して

「もっと男の子らしい衣装」にしろ、とはじめこそは言います。

いや、ここでふたつ返事で、その衣装を買ったらいいよ、と言える親は少ないはずです。

 

とはいえ、パーマーもだんだんとサムのあり方を認めていきます。

それは、きっとマイノリティへの配慮というよりも、単純に父親代わりとして、子どもの志向を尊重したのだと思います。そこには愛情があったのです。

 

新型コロナウイルスが日本で最初の患者が確認されてちょうど1年が経とうとしています。

当時マスクを着用していたのは、緊急事態宣言が出ていたからです。

でも、今となってはマスクというのは、1年中つけるものになっています。

それがスタンダードになっているのです。

 

それと同じように、映画の登場人物の中でも、そういったマイノリティが特段それ自身がテーマとなったりすることなく、一人のキャラクターとして描かれることがスタンダードになりつつあります。

 

先に紹介した「ブックスマート」も同じようなところがありました。

これまでなら、主人公になり得ないガリ勉キャラが主人公のキャラクターでした。

 

そう、これからはそんな類型化されたキャラクターというよりも、生身の生きた人間として、

さまざまなバックボーンを持つ人物像が描かれ、そして物語が語られていく。

そんな風に思いました。

 

その意味でバックボーンを体現するジャスティン・ティンバーレイクの演技は素晴らしかったと思います。

社会に対して敵対するかのように、他の人たちとなるべく距離をおこうとしてきたパーマー。

それが、最後にはサムと打ち解けて、サムとの距離が近くなっていくのが自然な演技で見せてくれました。

 

この自然な演技と、新しい常識の価値観の中で描かれるからこそ、ありきたりな設定でありながらも、普遍的な親子の愛の物語に触れることができたのだと思います。

 

Apple TV恐るべし。

映画「パーマー」は、そのクオリティに、次のApple TV公開作品もチェックしていくきっかけとなる作品となりました。

 

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映画レビュー「ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー」 他者理解への旅

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突然ですが、レンチキュラーというものをご存知でしょうか?

レンチキュラーは、シート状で絵が描かれている印刷物です。

 


一番の特徴は、2枚の異なる絵が印刷されていて、見る角度によってその絵が変わるというものです。

 


よく、子供向けのおもちゃや本の中で登場するので、実物を見れば、「あぁ、これか」とわかってもらえると思います。

 


私が小さい頃からあるものなのでおそらく、20年、30年以上前からあります。

今となっては子供だましな技術かもしれません。

 


レンチキュラーそのものは、確かに子供だましかもしれません。

でも、一方でレンチキュラーは物事の真理を表しているのではないか、とも思います。

 


というのも、大人になって、いろんな経験を積んでくると、世の中はこのレンチキュラーのように、見る角度によって物事の見え方が変わるもので溢れていることに気づくからです。

 


人間だってそうです。

人は見かけによらない、とよく言います。

チャラチャラしてそうな人が意外と真面目だったり、真面目な人がとんでもない欲望を持っていたりします。

 


でも、そんな人間が持っている二面性を見抜くのは意外と難しいです。

その人の本性を見抜くためには、レンチキュラーを見る時のように、自分自身がその人を見る角度を変えなくてはいけないからです。

自分の立場をいつまでも変えなければ、本当のその人を見つけることはできないのです。

 


そのことを教えてくれたのは、2020年青春映画の傑作「ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー」でした。

 

本作のあらすじ


人は見かけによらない。なんて、ありがちなテーマかもしれませんが、それをものすごく巧みに描いた作品です。

 


本作は青春コメディのジャンルになります。

高校時代を勉強だけに費やしてきた、モリーとエイミー2人の女子学生が主人公です。

主人公二人は、卒業間近になって、遊んでいると思われたクラスメートの多くが、自分と同レベルの大学に合格していたことに気づいてショックを受けます。

失われた高校生活を取り戻すために、卒業前のクラスパーティーに参加するところから、物語は始まります。

 

 

モリーとエイミーと重なった自分の高校生活


そもそも、この設定の時点で私にとっては、「これは私の物語だ」と思っていました。

なぜなら自分自身がモリーやエイミーのような境遇に立たされたことがあるからです。

私は、高校生活注文、本作の主人公たちと同じでいわゆるガリ勉でした。

部活動も所属せずに、いわゆる帰宅部で高校生活のほとんどを勉強に費やしてきました。

その甲斐あってか、京都大学に入学することができました。

 


合格を聞いた時に犬とダンスをしたほど、嬉しかったことを覚えています。

しかしながら、大学に入ってから、周りのレベルの高さに私は驚愕しました。

 


さすがは京大、何気ない日常会話をしているだけで、賢いと匂わせる学生がたくさんいました。

でも、そんなことは入学前から想像できていたこでした。

 


想像できていなかったことは、京大生なのにイケメンだったり、スポーツで優秀だったり、いわゆるガリ勉、キテレツ百科の勉三さんのようなキャラクターとはかけ離れたイメージの学生がたくさんいたことでした。

 


話を聞けば、彼らは高校時代、しっかり遊んだり、勉強以外のことに取り組んできたりしていたことがわかりました。

勉強ばかりに費やしてきた私の高校生活はなんだったんだろう、と思いました。

 


「もっと遊ばなきゃ」

 


そんな思いを強くしたことを覚えています。

 


順序は少し違いますが、本作のモリーやエイミーと全く同じだったのです。

 


だから、その時点で、この映画は、これはかなり面白いのではないかと期待していました。

映画の面白さは、いかに没入できるか、にかかっています。

設定の時点で、共感していた私が没入しないわけがなかったのです。

 

脇役全てに光をあてるスマートな語りが面白い


実際、この映画はかなり面白かったです。

というのも、青春映画として、テンポが良くて、ドライブ感もあって、コメディ要素も面白くて、それだけで十分観る価値があります。

 


本当に、モリーとエイミーのやりとりが下ネタ込みで下世話でおかしいのです。

パンダのくだりは本当にくだらないですし、物語中盤にドラッグ効果で急にストップモーションアニメがはじまるなど、冷静に考えれば、かなりぶっ飛んだネタも仕込まれている映画でした。

 


でも、本作の真価はコメディ要素だけではありませんでした。

人間の描き方が、とてもスマートに描かれているのです。

 


まさに、映画自体がレンチキュラーのように、外観はコメディですが、見方を変えると、人生に対する普遍的なメッセージが詰まっていたのです。

 

 

 

映画というのは、キャラクター自体が物語を動かす機能になることが多いです。

味方役がいて、敵役がいるといったら想像しやすいでしょうか?

 


それで行くと、学校というのは、スクールカーストと呼ばれる言葉があるように、優等生、不良、リーダータイプ、オタク、いじめっこ、いじめられっ子とか、そういった人間関係がステレオタイプ化しやすいです。

 


しかしながら、ブックスマートでは、必ず、それぞれのキャラクターの違う一面を見せるつくりになっていました。

序盤の高校の中のシーンで、それぞれの生徒の、いわゆるステレオタイプな立ち位置を紹介した後に、パーティーシーンでそれぞれの違う一面を見せていくつくりになっているのです。

 


学校の先生が、裏の姿を見せたり。

意地悪そうだったキャラクターが、優しい一面を持っていたり。

お金持ちのボンボンだったキャラクターが、孤独を感じていたり。

 


脇役全てに、学校での役割分担のような物語の機能を押し付けないつくりになっているのが素晴らしいです。

 

他者理解への大切さを描くメッセージ性


人は見かけによらない。

だけであれば、もしかしたらありふれたテーマなのかもしれません。

しかしながら本作では、見方を変えるには自分が変わらなければいけない、そんなこともメッセージとして伝えている気がします。

 


そう、高校生の脇役キャラたちの別の一面を見ることができたのは、モリーやエイミーが自分の見る視点を変えることができたからです。

これまで勉強一筋だった彼女らは、普段の学校生活の中でしか、同級生のことを知りませんでした。しかし、最後卒業前夜のパーティに参加することで、また違った角度からクラスメートのことを理解できたのです。

クラスメートだけではありません、もともと親友同士であるモリーとエイミーもそうです。

モリーとエイミーがお互いに理解を深めることができたのも、違った角度からお互いを見ることができたのです。

 

 

 

そう、彼女らが立場を変えることができた、そして立場を変えるために行動を起こしたからこそ、そのことに発見することができたのです。

 

 

 

「ブックスマート」は本で学んで賢くなった人=経験を伴っていない人との揶揄で使われる表現だそうです。

 


彼女らは確かに勉強はできるが、ブックスマートでした。

結果として、一面的な捉え方しか、できていなかったのが、パーティーに参加し、他者の新たな価値観にぶつかって、初めてその人のことがわかる。

頭の中では決して理解することのできない体験だったと思います。

 


パーティでの経験を経て、ラスト、新しい視野を手に入れた彼女たちの清々しさは必見です。

 


本作は、ライトな印象の青春コメディでありながら、誰の人生においても響くような普遍的なメッセージが込められていると感じました。

 


人間は思った以上に自分の視点を変えることは難しい。

それも大人になればなるほどです。

 


だからこそ、ブックスマートは、大人になった今こそ見るべき青春映画の傑作です。

 

 

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(字幕版)

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  • 発売日: 2020/11/21
  • メディア: Prime Video
 

 



 

映画レビュー「アルプススタンドのはしの方」 人生を映す鏡のような映画

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空白の高校時代

 

私にとって、高校時代は空白の3年間でした。

 


別にいじめられていたわけでも、何か友人関係がうまくいってなかったわけでもありません。

でも、学校は楽しくもなければ、行きたくないこともないという感じでした。

学校生活のスタートでしくじったからかもしれません。

 


私が通っていた高校は地方ではわりと進学校として有名でした。

高校に入ってすぐ、実力テストのようなものがあって、世界の広さを知りました。

中学では、どんな教科でも常に10本の指に入る成績はありました。

それが高校に入った瞬間、そのレベルの高さに驚いたのです。

定期テストに本気を出して取り組んでも、平均点を取るのがやっと、みたいな状況が続きました。

 


当時、勉強という私の唯一と言っていい強みを出すこともできずに、私は高校の中に埋もれていく感覚がありました。

中学の時は常に中心に近いところにいた気がします。

勉強もよく出来て一目おかれていましたし、部活動も上手い方ではなかったけど、ムードメーカー的な役割として中心メンバーと近いところで頑張っていました。

自分で言うのもアレですが、周囲から慕われていたと思います。

 


ところが、高校では、中心にいられない居心地の悪さを感じながら生活をしていました。常にクラスの中心で、活躍している同級生たちの姿をみて、羨ましく思いながら、チャイムが鳴ったらすぐ帰る帰宅部員でいたのです。

 

「アルプススタンドのはしの方」は人生を映す鏡


映画「アルプススタンドのはしの方」を鑑賞した時、そんな自分のわりとダークサイドな高校生活を思い出していました。

 


この映画は、私の人生を映し出す鏡だと思いました。

鑑賞したことで、昔の自分を思い出すと同時に、これは自分の物語だと思ったからです。

 


そんなことを言うと、この作品の登場人物たちに失礼かもしれませんが、

本作では、私と同じように高校生活で、「中心」にいられなかった4人が主人公となっています。

 


この作品は、元は演劇がベースの映画作品です。

アルプススタンドのはしの方で、主人公4人の会話と甲子園での試合の展開がシンクロして物語が進行します。

 


野球部の甲子園出場をきっかけにクラス全員で応援に来ているところ、同級生4人がいやいやながらも参加するところからはじまります。

その4人は、応援の中心には入れずにアルプススタンドのはしの方にいるわけです。

 


それぞれに、「はしの方にいたい」と願う事情がありました。

 


これが、高校生活で中心にいられなかった自分と重ねてしまったことです。

野球部では甲子園という晴れ舞台があります。

でも、そんな甲子園に出場できる人なんてひとにぎりの人たち。

 


私は、高校生活のスタートをしくじって以来、何かの中心に入るということを諦めて、すみっこの暮らしをずっと続けてきていたのです。

そんな私にとって、甲子園に出場する選手たちなんてほとんどリアリティがありません。

私には関係のないこと、応援しても「仕方がない」存在だったと思います。

 


だから、主人公たち4人が、アルプススタンドのはしの方でやさぐれている姿をみて、「わかるわかる」と感心していました。

私は、甲子園に出場できないどころか、応援団の輪の中にすら、入れていない存在だったんだと思います。

 


それでいて、中心の存在が気になるから厄介です。

特に、四人の中で唯一男性で野球部員だった藤野のように、観にこなくても良いのに、クラスのことには気になって顔を出してしまう。

中心にはいられないのに、中心のことが気になってしまうややこしい性格でした。

 

やっぱり空白ではなかった


でも、物語も後半に向かうにつれて、主人公たち4人の中にも燃えるものが出てきました。

主人公あすはとひかるが諦めていた演劇の全国大会への夢。

甲子園の試合を通じて、諦めかけていた魂にもう一度火がつくのです。

 


それが彼女たち4人の姿を通じて、その熱意がこちらにも伝わってきました。

そして、私も思い出しました。空白だと思っていた、私の高校生活にも燃えるものがあったかもしれない。

 


私も高校時代ずっと中心にはいられなかったけど、最後は勉強頑張っていたんだった、と。

決して私の高校時代は空白ではなかった。

 


そして映画の主人公たちが、それに気づいたように、私も映画を通じてそれを思い出すことができたのです。

 


高校3年生の一学期のことでした。

高校1、2年生の時には平均点を取るのもやっとだったのが、まぐれで校内3位の順位を取ることができました。あの時に、私にははっきりと目標ができていたのです。

大学試験です。

楽しいと思っていなかった高校生活の中で新たな目標ができたのが嬉しかったことを思い出しました。

 


私の人生の断片を思い出させてくれたこの映画は、きっと他の誰かの人生ともシンクロするのだと思っています。

 


それは、本作が丁寧でリアリティのある人物描写がなされているからです。

 


一見、本作におけるライバルというか、敵役にもなりうる吹奏楽部のリーダーである久住さん。

彼女は、かなり中心に近い人物でありながら、甲子園で活躍する彼との関係に悩みます。

彼女もまた、彼女にとっての中心には近づけていないのです。

 


誰しもが、自分の思う中心にいられない学校生活を送っている。

そんなみんなのリアルを描いているからこそ、本作は観るもの誰にとっても人生をうつす鏡たり得るのだと思います。


空白時代だと思っていた高校時代、鏡を通してみたら、思った以上に眩い青春が待っているかもしれません。

 

 

 

 

映画レビュー「ジョジョ・ラビット」 お伽話のような現実を描いたポップな戦争映画

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映画「ジョジョ・ラビット」はおとぎ話のような映画でした。

でも、そこで語られることのほとんどは現実世界にあったこと。

そんなおとぎ話のような現実にふと、背筋が寒くなってしまうのが、

「ジョジョ・ラビット」でした。


不謹慎なくらいにポップで軽やかな映画

 


でも、安心してください。

「ジョジョ・ラビット」は、誰もがライトな気持ちで鑑賞できて、かつ楽しめる作品になっています。

これも実はおかしなことを言っています。

ジョジョ・ラビットの世界は、第2次世界大戦下のドイツ。

ヒトラーが政権を支配していた時代です。ナチスを崇拝する主人公10歳の少年ジョジョが、自分の家で匿われていた、ユダヤ人の少女を見つけたところで物語は動き出します。

 


この設定だけを聞くと、「どれだけ重苦しい映画なんだろうか」と想像できます。

実際に、ナチス・ドイツを描いたシリアスな映画作品というのは、この世にたくさんあります。

しかしながら、本作は、このナチスやユダヤ人差別を真っ向に描きながらも、ポップで軽やかに観れる作品になっています。

ナチス・ドイツという暗く、重い歴史的事実を映画として作品に残すには、やや軽すぎると思われていても仕方がない、と思われるほどです。

 

 

 

何せオープニングには、ビートルズの楽曲にあわせて、ナチスを崇拝するジョジョが軽やかにステップを踏み、当時のドイツがヒトラーに熱狂していたことを示す現実の記録映像が流れるからです。

 


その記録映像は、まるでジャニーズのコンサートで若い女性観客が声援を送るかのような盛り上がりで、今でこそ冷静な目で見ることはできますが、今の現実とのリンクを想像すれば、笑うこともできません。

 


そんな調子で、ヒトラー政権下のドイツの子供たちの様子が、非常にポップに描かれるのが本作最大の特徴です。

ヒューマンドラマの部類の作品ですが、ほとんどコメディと言っていいでしょう。

 


コメディ要素を演出する役者陣

 


まず、本作の監督であり、ヒトラー役の「タイカ・ワイティティ」自体がコメディです。

主人公ジョジョの空想上の友人として描かれ、冷酷な指導者というよりは、主人公ジョジョにアドバイスをくれる気の良いおっちゃんです。

コミカルな身振り手振りと顔芸で、ヒトラーが出てきても怖くない、というか安心させてくれます。

 


また、サム・ロックウェルが演じるドイツの軍人でヒトラー・ユーゲント(青少年向けのボーイスカウト的な集団)の教官もまた、コメディ的要素が強いです。

お父さんのいないジョジョにとって、父親代わりの頼れるおじさんになっています。

ユーモアのセンスもあって、彼が登場するシーンは常に顔がほころんでしまうほどです。

一方で、主人公のジョジョの家に秘密警察(ゲシュタポ)が押し入った時には、グッジョブな機転を効かせるなど、ジョジョへの想いも人一倍強いキャラになっています。

最後の戦闘シーンの出立ちは、完全に笑わせにかかっている一方で、ちょっと感動すらしてしまいます。

 


辛く重い戦争ものである

 


そんなコメディ要素の強い作品ではあるものの、辛くて重い戦争モノとして、残酷な現実も見せつけてきます。

 


ヒトラーユーゲントでのユダヤ人を悪と教える学校教育。

ユダヤ人の街中での公開吊し上げ。

ヒトラーの政策で本を燃やしてしまう。

子供たちに銃を持たせて戦場に行かせる。

 


コメディ色が強く、どこかフィクションじみた肌触りの作品となっていることで、逆にこれらの出来事が現実に起きていたことだと気づいて、ドキッとするのです

 

 

 

特に、ジョジョラビットの母親であるスカーレット・ヨハンソン演じるロージーの最後の演出はとても印象的でした。ジョジョの視線から見るロージーの靴という構図が中盤のショッキングな出来事に効果的に使われていました。

 


ジョジョとロージーがちょうど親子でチャリンコをこぐ、いわば幸せの絶頂のようなシーンで見せられた後のショッキングな出来事なので、より効果的でした。

 


ポップな演出と深いテーマのバランス感

 

ポップとディープ

明るさと暗さ

コメディとシリアス

 


そんな両極端の性質が絶妙なバランスで、描かれているのが本作最大の特徴だと思います。

それも、ナチス・ドイツというかなり暗く、重くなりがちな題材でそれをやってのけたのは、タイカ・ワイティティ監督の力量なのだと思います。

 


トーンの明るさ・暗さだけの話ではありません。

テーマ的なところもそうです。

 


全編コメディタッチな演出が貫かれる一方、ユダヤ人に対する差別からの相互理解が描かれます。

でも、主人公ジョジョが、屋根裏に住むエミリーと出会い、交流を重ねる中で、今までさんざん悪と教えられてきた「ユダヤ人」が、自分と何一つ変わらない同じ人間であることに気づいていくのです。

他社に対する理解やコミュニケーションをとることの大切さが、大上段に立って押し付けられるのでなく、映画のストーリー上ごくごく自然な形で観客の頭の中に染み込んでいく感覚がジョジョ・ラビットにはありました。

 


これまで観てきたように本作は、ナチス・ドイツをテーマとした作品としてはかなり尖った御伽話のような演出をしている一方で、かなり骨太なメッセージを持った作品になっていると感じています。

 


あまり戦争など、重苦しいテーマの作品が苦手な方でもかなり観やすい作品になっていますので、ぜひチェックしてみてください。

 

 

ジョジョ・ラビット (字幕版)

ジョジョ・ラビット (字幕版)

  • 発売日: 2020/04/03
  • メディア: Prime Video
 

 

 

映画レビュー「ひとよ」 愛と憎しみのシーソーゲーム

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あなたは母親のことを愛してますか?

あるいは憎んでいますか?


過去の理不尽な言動を許せますか?

母親があなたのためにとった行動を誇れますか?


人は、誰しもが、母親への愛情を感じていると同時に、

相手が親であるがゆえの憎しみを抱いています。

愛情と憎しみの間で揺れ動き、時にそれに悩まされます。


そんなことに気づかせてくれる映画がありました。

白石和彌監督の2019年の公開作品「ひとよ」です。

 


愛と憎しみのシーソーゲーム

 


それはまるで、愛と憎しみのシーソーゲームのような映画でした。

シーソーって、両方のバランスが取れていれば、ゆらゆらと安定します。

でも、本作における主人公たちは、そうではありません。

愛と憎しみの感情が激しくて、荒々しく、ギッタンバッコンと感情が反転します。

 


正解のないシーソーゲームで、観客に親に対する価値観を試してくるのが、映画「ひとよ」なのです。

 


本作では、そんな愛と憎しみのバランスを、映画ならではの極端な設定で描き出します。

 


人生を救い、狂わせた母の行動

 


冒頭、まだ主人公たちが中高生だったころの回想シーンから物語ははじまります。

主人公たち三兄弟は、父親からの、DVに怯える日々でした。

 


ある晩、田中裕子さんが演じる主人公の母親小春が、疲れた顔で帰ります。

人間の生気を完全に失った顔です。

子どもたちの、幸せ、自由のために、小春はDV父親を車でひき殺してしまうのです。

 


それは母親の決意であり、信念であり、覚悟でした。

その覚悟を一身に背負ったのが、母親だったのです。

 


しかし、物事は皮肉で、現実は冷淡です。

母親が、子どもたちのためにとった行動が、逆に子どもたちの人生を苦しめることになります。

3人とも、殺人者という子どもという立場がために嫌がらせを受け、

やりたい事が出来ない暮らしを送っていたのでした。

 


長男は優秀だったけれど、仕事が選べる立場にはありませんでした。

次男も小説家をめざしながらも、風俗ライターでうだつのあがらない日々。

長女は、美容師を志すも、道半ばで、風俗店で働きます。

 

 

 

それは悲しくも、母親が望んだ子どもたちの人生とはかけ離れています。

そんなおり、実刑を受けていた母親が3人の元に帰ってくるのでした。

しかし、3人の小春に対する感情はさまざまでした。

次男こそ、母親のせいで、こんな暮らしになったと、ストレートに母親に対して憎しみの感情をぶつけます。

 


表面表面上母親が戻ってきたことを喜んでいます。

一方で、長男や長女は、心の奥底では、完全には許せていない。

とまどってしまうのです。

 


母親が帰ってきたことは、3人の心の中のシーソーがガタガタと動き始めるきっかけとなったのでした。

自分たちに自由を与え、一方で足枷をはめた母親に対してどんな感情をもったらよいか分からない。そんな心の機微が、役者たちの演技のなかで表現されるのです。

 


心の機微を映し出す役者陣の演技

 

鈴木亮平さん演じる大ちゃんは、離婚するしないで妻と揉めています。

妻は決して、大ちゃんの母親が殺人者であることを責めているわけではない、相談してくれなかったことを責めています。

正論だと思います。

 


大ちゃんにもそれが分かっている。分かっているからこそ、返す言葉が無い。

かろうじて絞り出す言葉も吃音になってしまいます。

そんな究極なまでの不器用さ加減を、ガッチリとした肉体とのギャップ含めて見事に体現されていたと思います。

 


次男の、佐藤健さん演じるゆうちゃん。

今回一番、軋みの大きいシーソーの役回りでした。

あんなに美形なのに、やさぐれている感じがオーラだけで語れる人材だと思いました。

母親の一言一言に敏感で、一瞬眉をひそめるだけの演技が、演技全体のオーラにつながっていると思いました。

 


長女の松岡茉優さん演じる園子は、言うに及ばずだと感じています。

細かいコミカルな演技が、「本当にこういう人がいるよね」という感覚になって、それが没入につながっていると思います。これまでの演技でもみせてくれている安定感が、今回でも炸裂していたと思います。

 


そして、圧倒的な存在感として描かれるのは、そんな兄弟の親であり、人生を救い、狂わせた元凶である母親の田中裕子さん演じる母の小春です。

子供三人らが、現実にいそうな兄弟として絵が描かれる一方で、その母親はどこか何か超越した存在として描かれています。

 


何を考えているのか、もはや子供たちですらわからない。でも、その言葉ひとつひとつに母親としての強さを感じさせます。

「ここで謝ったら、子供たちが迷子になる」

終盤語られるこのセリフで、母親の存在感に急に説得力が帯びます。

 


まとめ

本作は、この役者陣の演技をみているといっても過言では無いレベルです。

正直ストーリー自体は、佐々木蔵之介さんの演技とか、筒井真理子さんのエピソードとか、3人の主人公の心情変化を起こすためだけに存在していて、ストーリーを進めるための人物になっていると思います。

 


でも、それを覆うだけの魅力がこの家族の演技には含まれていたと思います。

 


アクションも映画ならではの飛躍があって良かったです。

佐藤健さんの飛び蹴りは単純にカッコ良かったですし。

 


そんな演技に支えられた物語テーマ。

だれもが感じる親への複雑な感情。

愛と憎しみのシーソーゲームと表現しました。

そのシーソーは、中高時代からの年月が経て、軋みが生じていました。

軋んだシーソーは、もはや母親が帰ってきたという事実だけでは元に戻りませんでした。

 


それでも、主人公たちは、母親の存在を飲み込んで消化しながらも、最後前向きに進んでいきます。

 


この映画で描かれるのは、あくまでも極端なケースでしょう。

でも、現実に生きる私たちの世界においても、私たちは多少なりとも、親に対して複雑な感情に折り合いをつけながら生きているのです。

そんなことを気づかせてくれた傑作でした。

 

 

ひとよ

ひとよ

  • 発売日: 2020/06/24
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映画レビュー「リチャード・ジュエル」思いを貫くことの難しさ

 


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育児も仕事も趣味も妥協しない。

このブログのテーマです。

 


人生で何かことを成し遂げたいと思うのであれば、強い目的意識と、行動力、

自分が正しいと思うことを貫く力が必要です。

 


でも、自分が正しいと思うことを貫けば、貫くほど、生きづらくなる。

そんな社会の理不尽な一面を見せられるのが、映画「リチャード・ジュエル」です。

 

ド直球のエンターテイメント


リチャード・ジュエルはクリント・イーストウッド監督の最新作。

アトランタ五輪の際に実際に起こった冤罪事件をベースに描かれた作品です。

アトランタ五輪の関連音楽イベントの爆破事件を救った警備官であるリチャード・ジュエル。事件直後は英雄と称えられるも、一転、今度は第一通報者である彼は容疑者としてFBIの取り調べを受け、メディアにも取り上げられ、立場がどんどん悪くなる、というストーリーです。

 

本作は、ド直球なエンターテイメント作品です。最近、演出や脚本がトリッキーな作品も多いなかで、ありがちな題材でありながら、良質な映画としてちゃんと楽しませてくれるのはさすが、イーストウッドというべきでしょうか?

 


この手の冤罪事件を扱った作品では、本当はもしかしたらリチャードが犯人かもしれない。

そんな含みを持たせて着地する映画も多いです。

 

あやういリチャードの使命感

 

リチャードは、法執行官への憧れと、秩序に対するある種の使命感に燃えています。

その危うさが映画冒頭から、印象的に描かれます。

たとえば、雇ってもらった大学の警備で、学生とトラブルを起こして学長とケンカになります。

リチャードとしては、大学内の秩序を守るため、当然のことと思っている。

でも、それはあくまで周りからすれば、行き過ぎに見えます。

 


過ぎたるは猶及ばざるが如し。

リチャードの行きすぎた行動は、観客に「この人は本当は悪い人かも」という反応をもたらします。

その中で、リチャード自身が容疑者となってしまう爆破事件が起こってしまうのです。

 


ここで観客としては、本当はリチャードがやったのかもしれない。

多少なりともそんな印象を受けてしまいます。

 

 

 

でも、後半に行くにつれて、観客は段々と気づいてきます。

リチャード・ジュエルの信念は、本物でまっすぐだ。

 

 

まっすぐであることの両面性

 


本作では、リチャード・ジュエルの、よくも悪くもな「まっすぐ」さが描かれます。

 


まっすぐさは、時に危うくもあります。

一方で、まっすぐさは、勝ち抜く強さを持っています。

 


そんな、まっすぐさの両面を描いているのが本作だと感じたのです。

 


リチャードは、自分が容疑者となって、取調べを受ける立場になったにもかかわらず、法執行官に対する敬意を忘れません。

法執行官は、「いつか自分もなりたい」と夢見ていた職業だからです。

 


自分が不利になる発言だと分かっていも、自分が正しいと感じたことについてはその通り受け答えします。

やはり、まっすぐなのです。

 


そんなまっすぐさが社会では、受け入れられません。

心のない人たちの手によって、まっすぐな思いは利用され、もてあそばれるのです。

 


こうして、リチャードは数々の理不尽な思いをします。

 


一方で、理不尽な目にあう、彼の「まっすぐさ」の積み重ねが本当は、彼が犯人かもしれない、という疑念を払拭していきます。

 


映画も後半にむかうと、観客はすっかりリチャードの仲間です。

リチャードが、弁護士とともに反抗に向かうシーンでは、

今までFBIにナメられっぱなしで、リチャードの弁護人のサム・ロックウェルからも怒られっぱなしだった彼が、渾身の一言で場の空気を変えるシーンは胸が震える思いでした。

 


最後、リチャードは勝利します。

容疑者になった時は、あれだけメディアが大騒ぎしたにもかかわらず、リチャードの勝利は、世間的にはほんの些細な出来事でした。

せいぜい、喜びを噛み締めるかのようにハンバーガーを口に入れるくらいのことです。

 


でも、観客だけは、あの時、あの瞬間、リチャードとともに歓喜の声を挙げていたと思います。

 


人間誰しもが、人間の社会的背景や主義主張で、色眼鏡で見てしまいます。

私も同じように、リチャードのことをはじめは疑っていたのです。

行きすぎたまっすぐさは、社会では異端です。

 


誰もが容易に異端児として扱われてしまう。

そんな恐ろしさをこの映画から感じました。

 


一方で、社会の誤った目線から勝利を得るのも、「まっすぐさ」であることを物語っている気もします。

変な小細工ではなく、自分が信じる道を進むことが、生きていく力になると感じたのです。

 


「まっすぐ」であることの両面を見せてくれたのです。

ストーリー展開は単純でも、主演者が地味であっても、エンターテイメントとして成立し、しっかりと骨太のメッセージを届けてくれました。

 


90歳の監督のさすがの貫禄を見せつけてくれた一作だと思います。

 

 

リチャード・ジュエル(字幕版)

リチャード・ジュエル(字幕版)

  • 発売日: 2020/03/19
  • メディア: Prime Video
 

 

 

映画「Mank / マンク」レビュー リッチな映画体験への旅

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Netflix配信にさきがけて、映画「Mank/マンク」が一部劇場で公開されました。

 

デヴィッド・フィンチャー監督の6年ぶりの新作映画とあって、

21時以降の回しか見られなくても、夜に車を飛ばして観ました。

 

 

寝落ちした期待作はフィンチャー史上最も敷居が高かった

 


前評判も高く、期待度も高まっていました。

映画「市民ケーン」制作の舞台裏を描いた作品で予習必須と聞いて、アマゾンプライムで予習もしました。

万全の体制で、望んだつもりでした。

 


が、鑑賞中、完全に寝落ちしてしまいました。

 


もちろん、私が子供中心の生活で、夜遅くまで起きている習慣がないので、

21時以降となると、そもそも眠たいというのはあります。

ですが、それを差し引いてでも、こんなに眠たい映画は久しぶりでした。

 


フィンチャー監督がネットフリックスで好き放題作った結果、観客が置いてけぼりになっていたのです。

いや、置いてけぼりというのは、ちょっと表現が違っているかもしれません。

この映画は、映画に対するリテラシーが相当高い観客向けだったのです。

 


そういう意味では、本作がNetflix配信になっているのも頷けるかもしれません。

一部の映画教養の高い人向けで、そのことをわかった上で、配信の映画を観ることが想定されているのではないか。

映画館の上映スケジュールを眺めて、今日いきあたりばったりで観る作品を決めて臨む作品では全くない、ということなのです。

何も知らずに、本作を選ぼうものなら、「ようこそ眠りの国へ」といった事態になります。

 


いや、私自身も、自分で言うのはなんですが、映画リテラシーはそこそこある方だと思っていました。TBSラジオ宇多丸さんのラジオをもうかれこれ7、8年は聴き続けてきたわけですから。

でも、全然甘かったです。

 


映画「市民ケーン」だけを観て予習したつもりになっていたこと自体が間違いでした。

市民ケーンの背景と言いますか、制作背景、つまり本作のあらすじや登場人物の立ち位置まで知った上で臨むのが、本作の望まれるスタンスだと言ってもいいかもしれません。

 

 

 

そんなに敷居が高くて、しかも知らずに観たら眠りの国に誘われるような作品だったら、駄作ということになるのでしょうか?

 


私はそうは思いません。

本作は睡眠導入映画でありながら、めちゃめちゃリッチな映画体験だと思っています。

こんなリッチな映画はなかなかありません。

不思議な感覚です。あれだけ寝てしまったのに、いや寝てしまったが故に、この映画を攻略したい、つまりはもう一度みたいと思っているのが今の心境だからです。

 


具体的には、どんなリッチさがあるのでしょうか?

それは以下の三つで説明できます。

情報量のリッチさ。

映像表現のリッチさ。

視聴体験としてのリッチさ。

 

情報量のリッチさ


まずは情報量のリッチさ。

これは観た人ならわかると思いますが、本作では延々と会話劇が続きます。

半端のない会話量だと思います。

考えてみれば、デヴィッド・フィンチャー監督の近作はその傾向にあります。

市民ケーンのオマージュといわわれている「ソーシャル・ネットワーク」も会話量が膨大でしたし、ネットフリックスでプロデューサーあるいは一部エピソードで監督としても携わった「マインドハンター」においても、会話がメインの作品を作っていました。

マインドハンターでもそうでしたが、会話は多いけど、無駄な会話が無いんですよね。

常にテーマとリンクしている。

 


それも、本作では、登場人物などの背景を特に会話で説明せずに、「市民ケーン」や「市民ケーン」の背景知識を知っている人でないとわからない会話を平気で入れてきます。

その分、より豊富(=リッチ)な情報量を会話の中に詰め込むことができるんですね。

 


私たちは、話される会話がわかってなくても、話される会話の重要性は想像がつくから、

だからこそ、そこを攻略したい気持ちが湧いてくる。

ついていけなくて、眠気に襲われるのに、ついていきたいと思う。

ついていった先に、リッチな世界、そこに到達できた人にしかわからない喜びがあるかもしれない、そう感じさせてくれるからこそ、もう一度みたいと思わせてくれるんですね。

 

映像表現としてのリッチさ

 

次に、映像表現としてのリッチさもあります。

フィンチャー監督は、元々、絵作りがかっこよくて、人気なところもあります。

なんと言っても、代表作「セブン」のオープニングはめちゃめちゃかっこよかったですし、ドラゴントゥーの女のオープニングも大好きです。

 


今回は、市民ケーンの時代を再現ということもあって、モノクロ作品になっています。

また、映像の雰囲気も、1940年代の質感を意図的に真似ています。

でも、そこで写されている映像というのは、やっぱりフィンチャー印なんですよね。

レトロでありながらも、フィンチャーのクールでバッキバキな表現というのが際立っていると思いました。

特に、モノクロになったことで、光の表現が随所で印象的ですし、噴水の水をかけあうシーンでの水の煌めきが、より際立っていると感じました。

 


音楽も回想シーンでは、ビッグバンドのような、バックで流れるドラムの音が、小気味がよくて、映像を眺めているだけでも、心地よい気分になってきます。(結果寝る。)

 

視聴体験としてのリッチさ

最後に、視聴体験としてのリッチさ。

まずもってフィンチャーの6年ぶりの新作といだけで、ちょっとしたイベント感があります。

このNetflix配信というのが、市民ケーンが生まれた背景とも重なります。

そして期間限定で劇場公開されるのも、そこでの視聴がプレミアな経験につながります。

評論家の皆さんが、こぞって高評価を出していたり、映画「市民ケーン」との視聴経験もセットで語られることで、この「Mank/マンク」を鑑賞することそのものがリッチな体験になっていると思いました。

 

 

 

ここまでこの「Mank/マンク」がいかにリッチな映画なのかを語ってきました。

にもかかわらず、寝落ちしてしまった私。

でも、寝てしまってもいいのです。観ること自体がリッチなのですから。

きっと2回、3回と視聴を重ねたら、その度に発見がある映画だとも思います。

そういった意味でもNetflixでの視聴経験にあっているかもしれません。

 


Netflixでの配信は12月4日。

それまでに、市民ケーンについて調べて万全で備えましょう。

 

 

市民ケーン(字幕版)

市民ケーン(字幕版)

  • メディア: Prime Video