三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

「好き」についての哲学ムービー 映画「殺さない彼と死なない彼女」レビュー

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ティーンエイジャー向けの胸キュン青春恋愛映画のはずなのに、どうしてこんなに涙がこぼれそうになるんだろう?

 


映画「殺さない彼と死なない彼女」は、マグネットのような映画でした。ふたつの磁石くっつけようとすると、どうしても反発するけどちょっと裏返れば、ガッチリとくっつくあの感じです。

 


人は見かけによらない。

有史以来幾度となく、繰り返し口にされてきた言葉そのものを体現した映画だとも言えるかもしれません。

 


映画は見かけによらないのです。

 


本作の「見かけ」はまぎれもなく、キラキラ青春ムービーです。

壁ドンが得意そうな「彼」が地味で陰キャな「彼女」とくっつく映画です。

 


開始30分で、不安とぶつかります。

これ以降の1時間30分に耐え切れるだろうか。

 


キザなセリフ。自分語り。あわーい光の映像。キラキラとした世界。

 


SFやスリラーやサスペンスが好みな私とは趣味趣向が違うかも。

ドロドロ濃厚ソースのお好み焼きが好みな私に出されたのは、

キャラメル・チップ・クリーム・フラペチーノな味わいの映画だったのです。

 


本作は、主に3つのパートで進行します。

イケメンスポーツ優等生の「彼」と自殺願望のある陰キャ女子の「彼女」。

一方的に好きという感情を伝え続ける女子と受け手の男子。

可愛い自分を演じ続けるキャピ子と地味子。

 


それはそれは甘酸っぱいストーリー。

のはずでした。

 


本作は、ストーリーにほとんど動的な動きがありません。

細かいエピソードの積み重ねです。いや、エピソードですらない、登場人物二人の会話が延々と繰り返されるのです。

むしろ会話劇と言って良いです。

 


それもそのはず、本作の原作は4コマ漫画でした。

確かに、本作は4コマ漫画の要素を積み上げてできた映画でした。

場面場面はそれぞれ独立しているのに、完結しているのに、だんだんと感情は映画の世界に引き込まれていきます。

 


自然と会話劇が心地よく、より心の奥底まで深堀りされていく感覚がありました。

 


よく聴けばその会話劇は、チャラくてナンパでキャッキャなものではありません。

好き、好かれるという感情に関する一考察。コミュニケーション論。

ほとんど哲学と言って良い会話でした。

 


はじめは噛み合わない会話を楽しむコメディと思っていました。

でも、物語がすすむがごとに言葉一つ一つが重みを帯びてきます。

 


たとえば、キャピ子のエピソード。

キャピ子は何度となく映画で描かれてきた典型的なブリッ子です。

あまりに類型化されたキャラクター。そう思って映画を見進めます。

でも、キャピ子と彼女に関わる男とのエピソードの積み重ねがキャピ子に深い影と孤独を落とします。

 


はじめに登場した時は、あれだけキラついていた彼女が、陰影の深いキャラになるからすごいです。

誰しも、人に好かれたいと思って自分を取り繕う。どうしてそれがいけないのか。

好きでいてもらいたいというのは人間の根源的な欲求でないのか。

 


そんな思いが、普通なら嫌われがちな、キャピ子のキャラ造形に優しい眼差しをむけます。

 


次に、八千代とナデシコのエピソード。

何十回も「好き」と言い続けるナデシコちゃん。

はじめは、何回も何回も好きと言い続けて、ややもすると相当うざいキャラになりがち。

でも不思議なことに映画を見終わる頃には、キャピ子同様、めちゃめちゃ優しい眼差しを向けることになります。

恋する乙女はこんなにも可愛いのか、と。

 


そして、人が恋をして、その相手が、自分を好きでいてくれることの奇跡を感じさせてくれます。

映画館のシーン。いやがおうにも、青春時代がフラッシュバックされます。

 


最後に、本作のメインストリームの殺さない彼と死なない彼女。

これも他の2エピソード同様、はじめは彼・彼女のやりとり自体が鼻につきます。

でも、コミュニケーションが不器用な彼らが次第にお互いを必要とする関係に変わっていくことに次第に心が動かされていきます。

 


なぜでしょう。今でも理由は明確ではありません。

ただ一つ感じることは、彼らの会話が硬派だからと思います。

見た目はキラキラムービーなのに、会話一言一言に、お互いぎこちないながらも歩み寄ろうとする、真摯さや一生懸命さを感じてしまうんです。

 


そして本作は、最後に大きな仕掛けがなされています。

どういう話の展開になるかはここでは書きません。

 


でも冒頭30分から1時間。

正直この話はどこに向かうんだと、心配になっていた自分が恥ずかしくなるくらいに、物語は一点に集結していきます。

 


全ての会話の積み重ねの上に、「好き」という感情に関する哲学の世界へとトリップしていることに気がつくのです。

 


私は恋愛映画があまり好んで見る方ではありません。

でも、この映画は自分の恋愛映画という可能性を感じさせてくれたからです。

 


ナンパなチャラ男ムービーは、その実、硬派な恋愛哲学ムービーだったのです。

 


恋愛は、どうしてこんなにも無垢で純粋で愛おしいのでしょう。

本作のラストを思い出し、また目頭が熱くなるのを抑えるのでした。

 

 

殺さない彼と死なない彼女

殺さない彼と死なない彼女

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殺人稼業のお仕事ムービー「メランコリック」

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育児も仕事も趣味も妥協しない。

本ブログのテーマです。

スキマ時間をつくって鑑賞した映画が、

昨年公開された日本映画「メランコリック」。

新鮮な驚きに満ちた傑作でした。

 


本作の設定は、殺人を扱うスリラーでありながら、観賞後に振り返ってみれば、むしろお仕事ムービーという変わった感覚の映画でした。

お医者さんや刑事もののドラマのように、殺人稼業を題材したお仕事ムービーなんです。

もっといえば、お仕事を通じて、社会における自分の役割みたいなところにテーマが落ちていく、現代の若者の興味にもマッチした作品になっていると感じました。

 


想像と違った味わいの本作は、良い意味でこちらの予想を裏切ってくれました。

観たのが昨年だったら、昨年のベストに入っていたかもしれません。

 


設定はスリラーだが

 


メランコリックは、東大卒のコミュ障なフリーターの主人公・鍋岡が、ひょんなことからある銭湯でバイトをはじめるところから始まります。

その銭湯は、昼間は銭湯、夜は殺人の死体処理場として使われていて、主人公はそれに巻き込まれていく、という話に展開します。

 


熱帯魚屋が裏で殺人を働いていた「冷たい熱帯魚」なんかも彷彿とさせます。

 


本作では、主人公が、銭湯の裏の姿に気づいてしまったことで、一般人がどんどんと闇世界の深みにハマって出られなくなる。

そんな不条理が描かれます。

 


でも、それ自体は、映画のテーマそのものではありません。

いや、映画を観進めていけば、不条理を描いているのかどうかも怪しくなります。

 


不条理に巻き込まれた時の主人公の意外な反応

 


それは、不条理に出会ったときの主人公の反応に見てとれます。

鍋岡は、バイト先の銭湯で、死体の処理を目撃したせいで、自分自身もその処理に関わることになります。

観客はここで、鍋岡は一度ハマった沼からもう出られない、そんな絶望が描かれるのだろうと想像します。

ですが、ここで意外な展開になります。

 


鍋岡は、オーナーの東から死体処理の対価(ボーナス)をもらって喜ぶのです。

さらには、「もっとあの仕事ないんですか?」と東さんにいい寄る始末です。

 


この時点で

「あれ? 普通の映画と雰囲気が違うぞ」

となるわけです。

 


スリラーだと思っていたものが、若干のコメディ感すらある展開に笑ってしまいます。

 


今まで仕事で評価されたことがなかった鍋岡。

死体処理とはいえ、自分の労働が評価されたことに対して、思いがけず喜んでしまう。

ここで東大卒でアルバイト生活をしているという主人公の設定が生きているんですよね。

 


その後も本作はお仕事ムービーの要素が加速していきます。

後輩の方が、仕事をどんどん任されて焦りを感じたり、重大プロジェクトに自分を巻き込んでもらえなかったりします。

私自身も、会社勤めなので、「わかるわかるよ、その気持ち」と思いながら、観ていました。

しかも、社外(銭湯外)でも、「起業して成功しました」みたいな人物が出てきて、ますます鍋岡は劣等感を感じてしまうわけです。

 


人に雇われるということ、チームで仕事するということ、仕事とプライベートの両立。

いろいろ考えさせられた挙句、果ては、仕事に対する責任と覚悟まで問われる話になります。この時点でもう、お仕事ムービーから一歩進んで人生論に孵化しています。

 


東大コミュ障の主人公・鍋岡やその同僚のバカっぽい松本。

彼らが映画の中で成長していく姿を観ていると、はじめは少し見下していた観客も、おのずと応援したくなる。自分自身のコンプレックスと重ね合わせてしまって、ついつい物思いにふけってしまいます。

 


怖いスリリングな映画を期待していたら、結果、まさか目頭を熱くすることになるとは思いませんでした。

 


キャラの立った無名な役者陣の演技もすばらしい

 


スリラーとお仕事ムービーの間でギャップの中で、役者たちもシリアスとコメディのバランスの取れた素晴らしい演技になっているのも、本作最大の魅力になっています。

 


本作は、ネットを観ていると「カメラを止めるな」と比較されることも多いようです。比較される理由は、メランコリックも低予算で作られているということで、役者陣も無名な人が多いからです。でも、無名であることを感じさせない、役者のキャラ立ちが絶妙なバランスで演じられていて、観ていてとても心地よいものになっていました。

 


どのキャラクターも個性が強くって印象に残っています。

主人公の鍋岡は、東大卒でコミュ障というのを、そのたたずまいで見事に表現されていました。

あの、冒頭の百合さんとの銭湯でのかけ合いなんて最高でしたよね。

 


今回の悪役、田中というヤクザもいい味を出していました。

口を開くだけで怖い! 顔が怖い! 佇まいが怖い! 

というアウトレイジ的な怖さというよりは、もう少し粘着質な怖さでしょうか? 

物腰は柔らかいけど、決して許してもらえない不条理さを見事に演じられていました。

 


銭湯のオーナーで、鍋岡の上司にあたる東さんも、物腰柔らかくて良いおじさん、面倒見はいいけど、ヤクザの田中には逆らえない中間管理職的立ち位置を演じきってくれていました。

人殺し稼業を部下にやらせるときの、普通のおじさんぶりとのギャップに萌えます。

 


本作の裏主人公・松本くん

 


そして、なんと言っても、本作の裏の主人公と言っても良いでしょう。松本くんです。

登場シーンこそいわゆるDQNな感じの金髪チャラ男で、何も考えてなさそうなキャラでしたが、シーンが進むにつれて、評価がどんどん高くなるキャラでした。

主人公との対比される人物として、ストーリー上も重要な位置づけでした。

それも、登場シーンでは、分からないところが、うまくできていると思います。

はじめの面接シーンで、あんなに後から化けるなんて思いません。でも、おうおうにして、大器晩成型の人材は、面接で見抜けないというのもありますよね。

 


高学歴だけど仕事への意識が希薄な鍋岡と、低学歴だけど手に職つけて責任感もある松本。

そんな相反する二人が最後ついにバディとなって、結束を深めていくから胸が熱くなります。

 


この、人物や物語設定からの、意外なテーマ性。これらを支える登場人物たちの魅力。シリアスともコメディともつかない独特の語り口。そのすべてが新鮮で、いつまででも語ることのできる作品になっています。

 


最後のみんなで打ち上げするシーンでは、主人公が語るのと同様、いつまでもこの瞬間が続けば良いのに、とさえ思ってしまいます。

自分もその場に混ぜてもらいたい。そんな親近感すら湧く映画になっているのです。

 


今までに観たことのない経験や、新鮮な感覚。

それがあるから、私は次々と映画を観て自分の感性を磨いていくわけです。

ここでまた素敵な映画と出会えてよかったと思っています。

仕事に対して、無気力になっているみなさん。

ぜひお勧めします。

 

メランコリック

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秩序の中のカオス、映画「クライマックス(CLIMAX)」

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育児も仕事も趣味も妥協しない。

このブログのテーマです。

でも、育児も仕事も趣味も全部全うしようと思ったら、ストレスでまともに生きるのも大変です。

 

時に、非日常の世界に飛んでいきたくなります。

 

覚醒剤とか飲んだらどんな体験になるんだろうか? 

昔みたテレビの再現映像では、急にテンションがハイになって、ショッピングモールのエスカレーターを逆走する様子が流れていたのを覚えています。

アルコール飲んでちょっと気が大きくなる。

そのテレビの再現映像からは、そのレベルの感想くらいしかもっていませんでした。

 

ドラッグってそんな生優しいものじゃないって教えてくれたのは、フランスのギャスパー・ノエ監督の映画「クライマックス」(2019)でした。

きっとこの映画を観たら、誰もドラッグなんてやりたがらないでしょう。

一方で、この映画を観ているとハイな気分になります。

そしてもう一度、観たくなる。

あのダンスシーンをもう一度私に見せてください。

そんな気分になるのです。

 

その感覚って多分、ドラッグそのものです。

映画そのものがある種のトリップ体験になっているのです。

 

まず持って本作は、映画の構成からして普通ではありません。

 

それはいきなりはじまります。

映画の冒頭、最初のシーンが終わると、なんとエンドロールが始まりました。

そうかと思うと物語中盤の、え?こんなところで?

というところで、タイトルがバーン! と登場します。

 

通常の映画の型にハマっていない時点で、それはもうある種のトリップ体験です。

 

トリップ体験なのは、構成だけでありません。

そもそもこの映画「クライマックス」の物語は、雪山の学校に集められた22人のダンサーがアメリカでの公演に向けて合宿が舞台。その打ち上げパーティーで何者かにLSDを盛られて堕ちていく話です。

 

主演のソフィア・ブテラさん以外は、本物のダンサーが集まっているということもあって、とにかくダンスシーンが圧巻なんです。

 

一番は、合宿シーンの冒頭に繰り出されるダンスシーンです。

このダンスシーンだけでおかず何杯もいけちゃうくらいに圧倒されます。

 

私は、あまりダンスには詳しくなくて、どんなジャンルなのか、はっきりいうことはできません。

コンテンポラリーダンスとか、そんな類のダンスなのでしょうか?

予告でもその一端は観ることができます。

 

驚くべきは、そのダンスシーンの一体感です。

それぞれのダンサーが個性を出しながら、思い思いのダンスを踊っているように見えながら、全体としては妙に統一感がある。だからすごく締まってみえます。

いうなれば、カオスの中の秩序です。

映画を見終わってから振り返れば、カオスの中の秩序はちょっとでも綻びができれば、途端にカオスへと急展開していくことを暗示しているようにも思えます。

 

実際に、このあと徐々に不穏な空気が増幅していきます。

それは、登場人物たちの間で交わされる何気ない会話の中で示されていきます。

突如、ゲラゲラと笑い出す登場人物たち。

暴力性や性的な意味合いを帯びた言葉たち。

いわゆる悪い予感しかしません。

 

その後、もう一本のダンスシーンが挟み込まれます。

最初のダンスシーンとは、ルックこそ似ているものの、完全に別物になっています。

「カオスの中の秩序」のカオスが、顔を見せ始めるのです。

 

ひとりひとりのダンスもどこか、暴力性や性的なイメージを帯びています。

「荒々しい」

という言葉が一番しっくりとくるかもしれません。

この映画をトリップ前、トリップ後に分けるとしたら、このダンスシーンが完全に分岐点になっています。

カオスか、秩序か。

その二つの中間のバランスのダンスシーンになっています。

 

本作は、型にはまらないと言いました。

実際他に類のない奇抜な演出がされていると思います。

描かれているのも、それからどんどんカオス的になっていきます。

 

でも一方で、ものすごく緻密な作りにもなっています。

会話シーンで話される意味合い。

ダンスの意味合い。

その要素ひとつひとつが映画の場面場面をつないでいます。

繰り返しになりますが、その意味では、一見カオスを描きながらも一定の秩序を保つ。

映画全体がそんな作りになっているとも言えます。

過去作もぶっ飛んだ作品が多いので有名な監督ですが、表現はぶっ飛んでいても、作りはすごく丁寧なんです。

 

 

でも、物語終盤はカオスそのものです。

まさにトリップ体験している気分になります。

秩序が乱れれば、正しいと過ちの境目はなくなります。また、重要なことと些細なことの区別がなくなります。

本作のカメラはそれをそのまま写しとります。正しいことも過ちも重要なことも些細なことも、すべて等価で表現されるのです。

それはカメラの長回し多用にも現れていると思います。

 

カットを割らないということは、その分、レンズに映されているものはすべて映るということを意味します。

 

例えそこに、

突然おしっこをし始める女性がいたとしても、

頭に火が燃え移った人がいたとしても、

パーティーの場でSEXが始まったとしても、です。

そんなことがさも当然のように映し取られていきます。

 

ドラッグをすれば、普通に考えたら、ダメだと思われてしまうような倫理的なこともすべて吹っ飛んで行動してしまう。その末路がこの映画では描かれていきます。

 

個人的には、小さな子供を持つ私としては、さすがにあまり子供を巻き込んで欲しくなかったですが。

 

 

基本的にはドラッグの凄惨さを描いた映画だと思っています。

でも、アンチドラッグ映画でありながら、ドラッギーなハイテンションの妙な魅力を持った作品でもあります。

この冬、どこにもGotoできないなら、脳内トリップしてみてはいかがでしょうか?

 

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イクメンにこそ見てほしい映画「82年生まれ キム・ジヨン」

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趣味も育児も仕事も妥協しない。

このブログのテーマです。


今回紹介する映画「82年生まれ、キム・ジヨン」を観た後、私はこのテーマに対する自信を失ってしまいました。

本作は、現代社会での女性の生きづらさを描くとともに、男性の女性の社会参画への至らなさが冷ややかだけど、痛烈に描いています。

そして私は84年生まれ。

本作の主人公・キム・ジヨンと同様、まさに子育て世代真っ盛りの私に、その現実を突きつけてきたのです。

 

 

 

本作では、82年生まれのキム・ジヨンが生まれてからこれまでの様々なエピソードを通じて、女性であるがゆえに、男性優位の社会の中でいかに苦しんできたかが、描かれます。

 


痴漢、家族、キャリア、嫁姑、育児。

 


人生の様々なフェーズでキム・ジヨンは違和感の中で生きてきます。

おそらく同年代の女性にとっては、あるあるの連続なのではないでしょうか?


しかし私にとって、身につまされたのは、彼女の夫の描かれ方でした。

 


先に言えば、私はいわゆるイクメンだなんて言える立場ではありません。

子ども三人いますが、育休は全くとったことがありませんし、仕事が忙しくて平日はほとんど妻任せです。

それでも子供のことは好きで、こうして育児をテーマにしたブログも書いてますし、できる範囲で家事・育児もやってきたつもりでした。

 


でも、やっぱりこの映画を見ると、本作で描かれるキム・ジヨンの夫と同じく、何もわかっていないと思ってしまいました。

本作は、イクメンと言われている人ほど観てほしい映画だと思っています。

 


女性の生きづらさとともに、本作で描かれる男性から女性への無理解。

そのウェイトは意地悪なほど大きい。

男性の無理解を表すシーンひとつひとつが、同じ妻子を持つ男性としていちいち身につまされます。

 


心の奥底にしまっていた女性への無理解や軽蔑が炙り出され、

決してこれまで口にされなかった、深層心理が引っ張り出されて映画を媒体にして晒される感覚。

男性にとっては、そんな居心地の悪さを感じる映画になっているのではないでしょうか?

 


本作のそんな意地悪な目線は、夫のキャラ造形にあります。

主人公キム・ジヨンの夫デヒュンは、温厚で優しくて家族想いなキャラとして描かれます。

はたから見れば良き夫と思われているかもしれません。

子どもとも楽しそうに遊ぶし、イクメンを絵に描いたような人物です。

 


この映画が意地悪なのは、そのイクメンであるかのような彼のキャラが実は、妻の気持ちを何も分かっていないということを描いていることです。

一見すると妻想いの彼が、子育てする妻、キャリアを諦めた妻、夫の家族に入るという苦しみ、女性であるがゆえの数々の苦しみに対して、根本的なところで理解できていないのです。

 


たとえばまだ、冒頭嫁姑のシーン。

これは、新婚夫婦の誰もが経験するジレンマだと思います。

正月、妻が夫の家にいく。

妻は、姑に休んでくれていいよ、と言われながらも、気を遣って家事を手つだいます。

そうこうしていると義理の妹夫婦も登場してますますアウェイに。

結局お正月なのに全く休まらないという地獄です。

 


夫もそれが分かっているから、

「今度のお正月は実家帰るの辞めて旅行でも行こう。」

なんて言います。

「お正月に帰らないことで怒られるのは私だよ?」

妻はそれに激怒します。

 


夫、そして観客である私は急に胸を突かれた感覚になります。

何も分かっていなかったことがわからされます。

 


そうです、実家に帰らないことで怒られるのは嫁なのです。

一見、妻のことを想って企画する旅行。

それは本当に妻のためにはなっていないのです。

もっと言えば、夫にとっても嫁姑の確執はストレスになります。

つまり、正月の旅行は、夫にとってのストレス解消にしかなっていなかったのです。

 


それだけではありません。

キム・ジヨンは今は専業主婦。

本当は仕事でバリバリ働く女性上司に憧れ、働きたいと思っていました。

育児のせいで泣く泣く主婦となることを余儀なくされていたのです。

でも、上司や仲間のお誘いで、ようやく新たなキャリアを掴むチャンスが舞い込んできました。

 


しかし夫は、そんな妻にこう言います。

「そんなに頑張らなくても少し休んだ方が良いよ」

 


妻はこう切り返します。

「育児を休むことだと思っているの?」

 

 

 

一応、本作の設定として、妻に時々別の人格が乗り移る症状が設定されています。

夫は、その精神障害が社会復帰の障壁になると思って止めているのです。

 


でも、夫はそれが育児のストレスによるものだということが分かっていないし、さらに悪いことに、育休を休むことだと思っています。

 


その後の展開で、なんとか復帰することが決まりかけた時ですら、彼はこう言います。

「私も育児休暇を取るよ。読書だってできるしね。」

 


育休取れば、ゆっくり読書ができるなんていうナメた発言があります。

こういう心の奥底に眠る無理解が不意に顔を出すのがこの映画です。

 


しかもそれは、悪意がないのが逆に恐ろしくもあります。

女性に対する価値観が、インクのように社会に染み込まれていることがわかります。

一度染み付いたインクは拭いても拭いてもなかなか拭い去ることはできません。

 


こびりついたシミは取り除くのが難しい。

そんな無理ゲーのような社会状況を非常にクールに描いているのが本作です。

本作には、ドラマというドラマがなく、わりと淡々と物語が進みます。

だからこそ、逆に見えない社会の現実が際立っている作品になっています。

 


子育て、女性の社会参画。そんなテーマの作品は数あれど、今までに味わったことのない質感の映画になっていると思います。

 


自分のことをイクメンと思っている男性諸氏にこそ観てほしい一作になっています。

 

82年生まれ、キム・ジヨン

 

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 尻上がりに語られる女性たちの蜂起

ゴーストバスターズの女性版に代表されるように、今、ハリウッドでは女性チームものの映画が人気を博しています。

今回紹介する映画「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 バーズオブプレイ」もそのひとつです。

 


でも、私は、今作が女性チームものだったとは知らずに鑑賞していました。

ハーレイ・クインという圧倒的な見た目のキャラクター。

ポスタービジュアルをみても、ハーレイ・クインだけが大きく描かれています。

このポスターからゴーストバスターズチャーリーズ・エンジェルのような女性チームものはなかなか想像できません。

 


アベンジャーズのポスタービジュアルだって、アイアンマンやキャプテン・アメリカが主人公級でクローズアップされるものの、全員が一応きっちり写っています。

 


きちんと予告やあらすじを読んで、映画に臨んでいれば、本作が女性チームものであることはちゃんと分かっていたと思います。

 


でも、私のように、ポスターだけの印象でこの映画に臨んだ人は、ある意味新鮮な驚きがあったでしょう。私はありました。

結果的にはそれで良かったと思っています。

 


実は、今作が女性チームものだってわかるのは、終盤の方なんです。

それまではハーレイ・クインの物語として進んでいきます。

 


そもそもハーレイ・クインは、同じくDC映画の「スーサイド・スクワッド」でジョーカーの彼女として登場するキャラクターです。

私自身は、スーサイド・スクワッドを(評判があまりよろしくないこともあり)観れてなかったので、このハーレイ・クインというキャラクターにさしたる思い入れもありませんでした。

 


本作は、ハーレイがジョーカーと別れるところからはじまります。

ハーレイは、ジョーカーに依存することで好き放題に生きてきました。

 


ハーレイの破局は、ジョーカーからの自立を意味します。

でも、そもそもハーレイの背景を理解できていないうえで、いきなり冒頭からジョーカーへの依存からの自立が語られても、正直ピンとこないものがありました。

 


というか、ジョーカーの恋人だったら、そもそもハーレイはヴィラン(敵役)なのではないのか? という疑問も湧いていました。

 


スーサイド・スクワッドを観てから鑑賞していたら、もう少し違う感想を持っていたのかもしれません。おそらくそこでジョーカーとハーレイの関係性が描かれていたのでしょう。

それを観ていない私にとっては、序盤はあまり乗れなかったのです。

 


でも、終盤に差しかかって、バーズ・オブ・プレイが結成されるのを観て、ハッとさせられました。

あぁこれってこういう話だったのね。

 


ここにきてようやく、物語のテーマが見えたのです。

それは、女性の自立でした。

 


男性に支配された階層社会の中で生きる女性刑事。

マフィアに支配された歌姫。

暗殺家として育てられ復讐に燃える女性。

 


階層社会、マフィア、復讐、それぞれからの自立を目指す女性たちがひとつの共通の目標を持って一致団結する姿にはグッとくるものがありました。

 


個人的には、ハーレイ自身よりも、心が動いたくらいです。

変な話、彼女が一番浮いていたくらいです。

でも、ハーレイが中心となって動いていたからこそ、周囲が巻き込まれていったとも言えるわけなんですよね。

本作は、ハーレイ大活躍! の物語ではなく、ハーレイが女性たちを巻き込んでチームにしていった話でもあると思いました。

 


とにかく、バーズ・オブ・プレイが結成されて以降は、評価が180度転換しました。

この映画面白いじゃないか。

女性たちの自立というテーマもさることながら、アクションシーンは一見の価値ありです。

 


いや、これも実をいうと序盤のアクションシーンについては、正直あまり良いと思ってませんでした。

 


特に警察襲撃シーン。

なんだかハーレイがカラフルな煙玉みたいなものをぶっ放して警察を襲撃するのってなんだか現実離れしすぎてて。さらに言えば、屈強な警察官相手に、肉弾戦で戦いきるのもなんだかやっぱり納得感がなかったのが正直なところなんです。

 


でも、終盤のバーズ・オブ・プレイ結成後の一大アクションシーンは、一転印象が変わります。

 


銃器をたくさん持った集団に、ほとんど生身の人間が全うに戦うと言うのは、序盤と同じく現実離れしていると言わざるを得ません。

 


でも、終盤のこのシーンは、どこかの遊園地のアトラクション跡地で行われます。

その場面設定とあいまって、その現実離れしたバトルが絶妙に抽象化されるのです。

 


様式美というか、ある種アーティスティックな快感すらあるバトルシーンになります。

 


それは、ハーレイが全く必然性がないにもかかわらず、ローラースケートを履いて戦闘するシーンに表れています。それはただ、「かっこいいからやっている」とも取れるわけです。

まぁ、さすがに歌姫の○○には笑ってしまいましたけど。

 


というわけで、序盤のテンションの低さから考えると、尻上がりに物語を楽しめる作品になっていました。

最後のハーレイの選択も安易な方向じゃなくて良かったと思っています。

重たいテーマも抱えながら、ライトなエンタメとしても楽しめる。

終わってみれば、満足度が高い作品になっていました。

アメコミ未体験でも楽しめると思いますよ。

 

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(吹替版)

 

 

 

 

 

映画「TENET(テネット)」が知的好奇心を刺激する理由

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アインシュタイン相対性理論はなぜ人の知的好奇心を刺激するのでしょうか?

 


本屋さんに向かえば、相対性理論の入門書がずらりと並んでいます。

大学で学ぶような高度な理論にも関わらず、相対性理論を理解しようと多くの人が入門書に手を伸ばすのです。

でも、相対性理論にはわかるようでわからない難しさんがあります。

本を読んだ時は理解できたつもりでも、しばらくと経つとやっぱり思いだせずに、今度はインターネットでもう一度「相対性理論」と検索します。

 


難しい理論にも関わらず、繰り返し繰り返し、理解しようと試みたい気持ちにさせる。

それが相対性理論の不思議です。

 


不思議な相対性理論が人を惹きつけてやまないのには、理由があります。

それは夢やロマンに溢れているからです。

ブラックホール、タイムトラベル。

SF映画の設定としてポピュラーなこの二つは、元を辿れば、アインシュタイン相対性理論に基づいています。

映画の題材になるようなワクワク感のある現象を導き出すのが、この理論です。

 

 

 

相対性理論は、時間と空間は相対的なものであるという理論。

Aさんが感じる空間と時間と、Bさんが感じる時間と空間は違うことがあり得るというものです。

つまり、時空の歪みです。

 


それは直感とは反する現象です。

本来日常生活をしていても、気がつくことができないでしょう。

時間というのは、Aさんに流れる時間も、Bさんに流れる時間も誰にでも平等というのが、我々の実感だからです。

その実感をくつがえすのが相対性理論で、その行き着く先にタイムトラベルなどの考え方が登場するのです。

 


日常生活では直感的に感じ取れないことを物理の計算で解き明かしてくれるロマンが相対性理論があります。

学ぼうとする人の知的欲求を満たしてくれるのです。

 

 

 

 


そんな相対性理論と同じように、我々の知的好奇心を大いに刺激してくれる映画があります。

それは先日公開されたクリストファー・ノーラン監督の新作「テネット」です。

 


映画テネットは、公開直後から

「わけがわからない。」

「難解すぎる。」

「何回も観てようやく理解できた。」

普通で言えば、ネガティブと言える感想が相次いでいます。

 


それにも関わらず、

「傑作」

「今年ベスト1」

「冷え込んだ映画業界を救う一作」

本作を絶賛する声も多いのが特徴です。

 

 

 

テネットは、アインシュタイン相対性理論と同様、

夢やロマン、現実の直感に反するような現象を説明する物理学ならではのワクワクやドキドキにあふれた設定や理論が描かれています。

 


そして、「現実の直感に反するような現象」を映像化した結果、今までになかった映画的体験が生まれています。

 


その映像表現が、観客の知的好奇心を刺激し、相対性理論を何度も学び直すかのように、

何回も映画館に足を運ばせるのです。

 


思い返してみれば、ノーランは、今までも現実世界ではあり得ない現象を映画という媒体を使って繰り返し表現してきました。

夢の世界や多次元宇宙。

それらは、時にバカっぽくもみえる設定です。

 


しかし、いずれも現実の物理学を基礎としています。

現実にあり得るかもしれない現象を、映像化することで説得力やロマンを持たせることに成功してきました。

 


まさに映画にしかできないことです。

 


今回それがより強化され、観客の知的好奇心を刺激し、読み解けば読み解くほどロマンに溢れるブラックホールのような映画が、テネットなのです。

 

 

 

より具体的に言えば、本作では、「時間の逆行」が描かれます。

何が斬新かと言えば、今までにも、「過去に戻る」というのは繰り返し、映画でも描かれてきました。

その場合、過去に戻る時間は一瞬で、ドラえもんのタイムトラベルのようにいきなり恐竜の住むジュラ紀に飛べることができる。そんな時間遡行の描かれ方が一般的です。

 


しかし、テネットの場合は違います。

時間の逆行はあくまで逆行。時間はさかのぼってはいるものの、そこで感じるの進み方は時間が前に進むのと同じ感じ方になります。

10秒かけて進んだ時間は、10秒かけて戻ります。

 


ここが今までにない、新しい映像表現になっています

荒唐無稽な設定のようですが、ちゃんと物理学の理論に基いてます。

時間の逆行は、エントロピーの減少で説明され得るということです。

 

 

 

直感に反することなので、ただでさえ理解が難しいにも関わらず、

劇中そのルールや理論がほとんど説明がされません。

チュートリアルシーンのあった、「インセプション」に比べると説明不足と言わざるを得ませんが、作品全体のテンポ感を優先したのでしょう。

そのおかげで主人公自身が感じる戸惑いをそのまま観客にも感じてもらう効果があるのかもしれません。

 


ルール説明が少ないだけではありません。

劇中に、この時間の逆行と順行が同時進行するシーンがあります。そのことが本作をより複雑にしています。

順行と逆行が入り乱れるシーンは、一回観ただけではほとんどわかりません。

でも、ノーランのすごいところは、映像自身の圧倒的な力で、理解はできないけれど、何かとんでもないことが起こっているという感覚を引き起こしてくれることです。

 


この直感に反する映像表現は映画でしか味わえないリッチな体験になっています。

映画館で足を運んで、目撃していただきたいと思います。

 


さて、ここまでテネットがいかに難解かを説明してきました。

難解なだけでは、おそらく観客はついてこないでしょう。

 


この物語に観客がついてきてくれるかどうかは、難解な物語を攻略する甲斐があるかどうかにあると思います。

本作のラストには、この映画の攻略の先に、大きな感動があることが示唆されます。

相対性理論を突き詰めればブラックホールやタイムワープがあるように、この映画を理解した時、時代を超えた壮大なスケールのロマンが待っていることを意味します。

真実の先に途方もない人間ドラマがある。

ある意味インターステラーでも描かれたノーラン節ともいえます。

 


だからこそ、本作を理解しようと何度も何度も、足を運びたくなるのです。

この難解さとロマンとエンターテイメント性のバランスの良さが本作を傑作と言わしめていると思います。

 


アインシュタインの示した相対性理論が現代にいきる我々の知的好奇心を刺激するように、ノーラン監督のテネットも世代を超えて語り継がれる名作となるのでしょう。

その歴史の瞬間をぜひ映画館で体験してみてください。

映画ドラえもん のび太の新恐竜で親の心を鷲掴みにされた話

 

 

はじめは、子どもに付き合ってるだけのつもりだったはずが、最後には完全に感情移入してしまいました。

映画「ドラえもん のび太の新恐竜」の話です。

 

白状すると、年甲斐もなく涙を流しそうになってしまいました。

 

「年甲斐もなく」

実のところ、本作にこの言葉は当てはまらないのではないか。最後まで観てそう思いました。

 

それは本作は、完全に大人をターゲットしていたからです。

ですから、「年甲斐もなく泣く」という表現は間違っています。

相手は、本気で大人を泣かせにかかっているので、年齢不相応を表す「年甲斐」という言葉は当てはまらないのです。

 

思えば、そんなことはじめから気がつけることだったのかもしれません。

なぜなら、本作の映画主題歌は、Mr.childrenでした。

その時点で気づくべきだったのです。これが大人向けの映画だってこと。

 

ミスチルなんてデビューから30年近く経っている今やJPOPの大御所です。

私も大好きなアーティストです。

でも、デビュー30年ですよ? 

明らかにドラえもんを好んで見るであろう小学校をターゲットにしていません。

その親世代を見据えたミスチルの起用です。

 

 

子どもが観に行くのに親も同伴する。

であれば、大人も楽しめるエンターテイメントにする必要がある。当たり前の話でした。

その広告塔にミスチルがなっているのです。

 

 

ドラえもんは、CMでガンガン流れていました。

娘が学校で、ドラえもん観た観てないの話になったのでしょう、家で四六時中ドラえもん観にいきたいと騒いでいました。私はまんまと、ミスチル主題歌だし、付き合ってあげるかとなったのです。

 

休日の映画館。私は小学生の長女レイちゃんと次女アスカちゃんと一緒に映画館に向かいます。さすがのドラえもん

コロナで一席離して、座席が販売されていたこともありますが、ほぼ満席状態でした。

私ら3人は、一番前の席で観るはめになりました。

 

 

何年ぶりかな、映画ドラえもんなんて、思いながらライトな気持ちで鑑賞していました。

映画の内容に期待していませんでしたし、土日で眠たいし、映画館で暗いことを良いことに昼寝しようとさえ思っていました。

 

でも、予想以上に見入ってしまいました。

単純に大人が見ても面白い作品になっていました。いや、大人だからこそ面白い作品でした。

本作は、宣伝で大人を呼び込もうとしているわけではない。

ストーリーで、完全に親の心を掴みにきている。そう感じたのです。

 

本作は、前半と後半に別れます。

前半は、恐竜の卵から返ったミュウとキュウの双子の恐竜を、のび太が親が代りとなって育てるパート。後半は、自立しつつある双子の恐竜を、元の恐竜の時代に戻し、別れを告げるパートです。

 

 

前半は、のび太が育てたことのない恐竜を、育て方をいろいろ調べたり聞いたりしながら、なんとか命をつないでいく話です。これは、はじめて子どもを育てる親の姿そのものです。子どもに対して無償の愛情を向けるのび太の姿に、自分の経験を重ね合わせた親は多いのではないでしょうか?

 

そして、後半の出来そこないだった恐竜がついに独り立ちしていく話。

よくある話といえばよくある話。ですが、今ここで劇場に足を運んでいるのは、まさに小学校低学年くらいの出来ることがどんどんと増えって言っている学年です。

そして一方、たくさんの壁にぶつかり始める年齢でもあります。得意不得意が徐々に分かれ始める年齢だと思うのです。

自立に向けて努力するけど、うまくいかない子どもが、努力でなんとか羽ばたけるようになる。

そんな年代を育てる大人にとっては、まさしく琴線に触れる映画になっていました。

 

これも完全に親世代をターゲティングされた設定だと言わざるを得ず、落涙を我慢するばかりだったのです。

 

子どもの成長、そして出来損ないと思われた子の努力が生命の進化につながる。

そんな壮大なドラマで、ドラえもんは大人の心をくすぐってきました。

ほら、これは今劇場に来ている、あなたとあなたの子どものストーリーだと語りかけてくるのです。どうしたって感情移入させられる作りになっていたのです。

 

 

そして極め付けは、大人も納得のストーリーテリング

前半に散りばめられた伏線が、ややわざとらしいものも含め、鮮やかに回収されていく様は小学生向けと侮れない作りになっています。

 

タイムトラベルと歴史改変、現実の進化理論について、ドラえもんなりの解釈でエンタメ化しているのも上手いと思いました。

タイムトラベルの要素も含めて、ドラえもんのび太の行動が、歴史を改変することなく、でも進化の歴史に答えを与えたのは、進化について知識を持っている大人も納得の設定だっと思います。

 

 

いろいろと書き連ねてきました。

でも、ひらたくいえば、今回のドラえもんは「大人も子どもも楽しめる作品」だということです。

 

いや、もしかしたら今までの映画ドラえもんシリーズは全部そういう思想だったのかもしれません。私が知らなかっただけで。

 

今回はのび太の新恐竜といタイトル。以前に「のび太の恐竜」という映画で大ヒットを飛ばしていたことを考えると、本作は、特に気合の入ったタイトル、それゆえの高クオリティだったのかもしれません。

 

いずれにせよ、ちょっと過去作も見返したくなるようなくらいには、私にはとても良い作品に感じました。

 

広告塔のミスチルで、のこのこ映画館に足を運んだ私は、まんまとドラえもんファンになった話でした。

周りに聞いていると、結構大人でもドラえもんファンって多いので、今後もリサーチ対象で注目していきたいと思います。